― 260 ―― 260 ―㉔ 五百羅漢図の研究─清規の図像化─研 究 者:東京文化財研究所 研究員 米 沢 玲はじめに羅漢は出家者のなかで最高位(阿羅漢果)を得た存在で、その信仰は中国・唐代で広まり日本へと伝えられた。中世には日本でも羅漢の彫刻・絵画が盛んに制作されるようになるが、そもそも羅漢には図像の典拠となる経典や儀軌が存在せず、その造形作品も多様である。羅漢は十六や十八といった、まとまった数で信仰されることが多く、なかでも五百羅漢に対する信仰は宋代での流行を受けて日本でも中世以降に盛んとなっていく。南宋時代の淳凞5~15年(1178~88)の銘記を持つ大徳寺伝来五百羅漢図(以下、大徳寺本)は、一幅に五人ずつ羅漢を描いて百幅からなる大部の作例で、中世に日本へと伝えられた(注1)。大徳寺本には羅漢の奇瑞や日常生活、高僧伝、仏教説話など多様な画題が採用されているが、そのうち、日常生活の場面には清規という僧院の規律が反映されていると考えられる。清規は寺院における儀礼や集団生活を営むための規則であり、その成立は禅宗の宗派としての独立と深く関わっている。北宋時代に編纂された『禅苑清規』は鎌倉時代に日本にもたらされ、以降、国内でも多くの寺院で独自の清規が編まれて修行生活の拠り所とされるようになる。大徳寺本に描かれた日常生活の場面には、この『禅苑清規』の記述と合致する描写が認められるが、これは羅漢を僧院に暮らす修行僧になぞらえていたためと考えられる。このような清規に基づいた描写は当寺の僧院の実情を反映したというよりもむしろ、正しい修行生活という理想を可視化するためであったと考えられる。本調査研究では、この清規と五百羅漢図との関わりに着目し、大徳寺本を再構成して成立したと考えられる円覚寺五百羅漢図(以下、円覚寺本)と東福寺五百羅漢図(以下、東福寺本)を取り上げる。その中でも僧院生活を画題とした図様を詳しく見ていき、さらに日本における清規の受容や展開を踏まえて、両本に修行生活という図様が採用されたことの意味について考察する。五百羅漢図は羅漢供養の隆盛に伴って輸入あるいは制作されたと考えられるが、単なる儀礼の本尊というだけではなく、その図様によって清規が可視化されていたことの意義を提示したい。1、五百羅漢図と清規まず、大徳寺本と『禅苑清規』の記述について確認しておきたい(注2)。『禅苑清
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