― 261 ―― 261 ―規』は、現存する最も古い清規で、北宋の崇寧2年(1103)に雲門宗の僧・長蘆宗賾が著した清規で『崇寧清規』とも称される(注3)。初期の入宋僧らは、この『禅苑清規』を日本へと持ち帰り、彼らが開いた寺院では清規に基づいた修行生活が行われていたと考えられるが、この点については後述したい。大徳寺本には僧院における日常生活や儀礼を主題とした画幅が数多く認められるが、なかでも「浴室」・「喫茶」・「展鉢(食事の準備)」・「飯僧」の画幅には、『禅苑清規』が説く僧院生活での規律に具体的に一致する描写が認められる点で貴重である。すなわち、入浴や喫茶、食事という行為はすべて規律に則って行われるべき修行生活の一部であったことが羅漢図によって可視化されている。次に、円覚寺本と東福寺本の概要を見ておこう。円覚寺所蔵の五百羅漢図は元時代とされる三十三幅と室町時代の十六幅、江戸時代の一幅との五十幅からなる。東福寺に伝わった五百羅漢図は円覚寺本と同じく五十幅から構成され、画僧・明兆(1352~1431)によって至徳3年(1386)までに完成されたことが分かっている。現在は彩色本四十五幅が東福寺に、二幅が根津美術館に所蔵されているほか、白描の五十幅が伝わっている(注4)。東福寺における羅漢供は開山・聖一国師円爾(1202~80)が始めたものであり、本五百羅漢図の制作は東福寺の復興運動に関わるとの指摘がある(注5)。円覚寺本は伝来に不明な点が多く、輸入時期や制作地については検討が必要だが、東福寺本と同様に新たに隆盛した羅漢供の本尊として用いられたものと考えられる(注6)。両本には、大徳寺本に共通する画題や図様が数多く認められ、また一幅には十人の羅漢が描かれることから大徳寺本のような百幅本五百羅漢図を再構成する形で成立したか、あるいはそのような原本に拠ったものと考えられている。ただし円覚寺本と東福寺本とは完全には図様が一致せず、同様の画題を踏襲したと思しき画幅でも相違が認められるなど、大徳寺本と両本との関係性には不明な点が多い。制作年代の問題や図様の構成をより丁寧に見ていく必要があるため単純に比較することは難しいが、円覚寺本・東福寺本とも僧院生活を題材とした画幅は多く、本稿では両本に共通して採用されている「浴室」と「食事」の場面を詳しく見ていきたい。大徳寺本「浴室」は、手に布包を持った五人の羅漢たちが、画面奥に「浴室」という扁額が掛かった建物に向かう構図である。円覚寺本は浴室とそこに向かう羅漢という基本的な構図、五人の羅漢の配置や他の人物(鬼や童子)、道具類などは基本的に大徳寺本に則っているが、五人が追加されて計十人の羅漢が描かれている(注7)〔図1〕。変更点を確認すると、大徳寺本では画面下方に半裸姿の鬼と二人の羅漢が歩く
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