― 263 ―― 263 ―る。ただし、大徳寺本では食事のために坐している羅漢がもともと五人だったが、円覚寺本・東福寺本では四人が追加されて九人の羅漢が描かれており、大徳寺本で羅漢として数えられていなかった左端の維那を加えて十人としているようである。このような工夫は、図様の再構成に際して画面のバランスを考慮したものであろう。また、両本の画面下方、左側に食事の容器を置いた卓を挟んで宝物を捧げる俗人と、容器を提げる童子が描かれている。この二人の人物は大徳寺本「飯僧」に描かれており、「展鉢」の構図に他の画幅の図様が組みこまれている。このように画題の似た画幅、あるいは他の画幅に描かれる人物を取り入れるという改変は、円覚寺本と東福寺本の他の画幅にも認めることができる(注10)。百幅から五十幅の五百羅漢図へと改変される過程で、単に画幅を取捨選択したのではなく画題を踏まえた再構成を行っていることが見て取れる。図様については両本でほぼ一致するものの、彩色に関しては「浴室」の画幅と同様に異なる選択がなされている。ただし、「浴室」では大徳寺本と円覚寺本の彩色に大きな異同が認められなかったが、たとえば大徳寺本「飯僧」で画面の手前、横を向いて座る羅漢は文様の入った三色の直綴と灰色の縁と青色の田相の袈裟をまとう一方、同じ位置に描かれる羅漢を確認すると、円覚寺本では黄土色の直綴と緑色の直綴に白色の田相の袈裟、東福寺本では黄土色の直綴に、赤い淵と白色の田相の袈裟と、それぞれ全く配色が異なっている。円覚寺本と東福寺本の図様や彩色については、他の画幅を含めた比較を行った上で後補部分も含めて慎重に検討すべきであり、本稿では「浴室」と「食事」の画幅における相違点の指摘に留めたい。2、日本における清規の展開『禅苑清規』は、栄西(1141~1215)や道元(1200~53)、円爾ら初期の入宋僧によって日本にもたらされ、彼らが開いた建仁寺や永平寺、東福寺といった寺院では清規に基づいた修行生活が実践されていたと考えられる(注11)。中世における国内寺院の清規とその実践がいかようであったのか、またそのことが円覚寺本や東福寺本といった五百羅漢図の図様とどう関わるのかを検討する前に、まずは清規の編纂について整理しておきたい。国内の清規は主として曹洞宗、臨済宗、そして近世には黄檗宗においても編まれているが、後述するように泉涌寺のような律宗寺院においても規律が存在しており、中世には広く清規あるいは規律に基づいた修行生活が実践されていたと考えられる。修行の実践方法や儀礼の作法等を説いた実用書である清規は、時代を経て改定が繰り返されることが多く、いまだ活字化されていない清規もあるが、こ
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