鹿島美術研究 年報第37号別冊(2020)
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― 264 ―― 264 ―こでは初期入宋僧を中心に中世に編まれた清規、あるいは寺院の規律や作法を説いた資料を概観しておく(注12)。日本曹洞宗の開祖・栄西は『興禅護国論』中に『禅苑清規』を引用しており(注13)、建仁寺でも修行生活に清規は取り入れられていたと考えられるが、栄西自身による清規は伝えられていない。一方、道元は『典座教訓』・『赴粥飯法』・『知事清規』など六種の清規を撰述しており『永平清規』と呼称されている。また、道元の著述として広く知られている『正法眼蔵』は法語集であるものの、「洗面」や「洗浄」といった日常生活のふるまいに思想的意義を説いた条項が含まれるなど、清規の実践を強く重んじていたことがうかがえる。建長寺や円覚寺を歴住した清拙正澄(1274~1339)も清規を重んじたことで知られ、日本の風習に即した『大観小清規』や『大観清規』を残している。能登・総持寺を開いた瑩山紹瑾(1268~1325)が元享4年(1324)頃に編んだ『瑩山清規』は、主として寺院の年中行事についての記述だが、のちに曹洞宗の清規として広く流布していく。また、近年紹介されたものとして泉涌寺や周辺寺院で行われていた儀礼や作法を記した『南山北義見聞私記』(以下、『私記』)があり、俊芿(1166~1227)自身の編纂ではないものの、開山当寺に実践されていた南宋律院の規律を伝えるものとして注目されている(注14)。『慧日山東福禅寺行令規法』は文保2年(1318)頃、東福寺十世直翁智侃(1245~1322)が編集したもので、円爾による東福寺開山時の清規の内容を伝承している可能性が指摘されている(注15)。以上のように、清規は入宋僧から伝わって以後もそれぞれの寺院あるいは宗派の気風に沿って国内で数多く編纂されており、中世の日本寺院においても儀礼や日常生活で規律が重視されていたことがうかがえる。このようなことを踏まえれば、円覚寺本や東福寺本に含まれる日常生活の描写もまた、単に大徳寺本の図様を継承しただけではなく当時の清規類に沿うものと認識されていたと考えられるのではないだろうか。以下、前章で紹介した五百羅漢図の「浴室」や「食事」場面について、国内における清規類の記述を確認したい。『禅苑清規』では「浴主」や「赴粥飯」の項目に、入浴や食事に際しての具体的な作法が述べられているが、このような作法が国内で実践されていたのかを検討していく。まず入浴に関して『正法眼蔵』では、「澡浴」として沐浴によって心身の清浄を保つことを説いている(注16)。『慧日山東福寺禅行令規法』には「浴室」の項目があり、入浴のための道具を整えること、浴室内での大声や唾を飛ばすこと等の禁止事項、入浴の順序について述べられている(注17)。『私記』「浴室章」には、脱衣の順序や浴室内での作法が詳しく述べられているが、入浴具を準備することや私語を禁じてい

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