― 16 ―― 16 ―れており、この手稿にも既に「無意味〔non-sens〕」の語が登場している(注6)。そして、当時のニーチェとショーペンハウアーのフランス語訳を確認すると、この「無意味〔non-sens〕」の語が決定的な意味を持つのはニーチェにおいてであることがわかる。遺稿集『力への意志』(1901年)の一節において、ニーチェはニヒリズムの極限形としての永遠回帰を「永遠の無(無意味〔non-sens〕)」と呼んでいる(注7)。人間が世界に与えてきた「意味」が崩壊することによりニヒリズムが生じる。だが形而上学の徹底的な批判者としてのニーチェによれば、この「意味」とは世界の背後に仮構される形而上学的な「真の世界」や、キリスト教的な「神の世界」によって根拠づけられる一つの解釈に過ぎない。ニーチェはこうした形而上学的な「真の世界」の存在を否定する。つまり「生の無意味」とは、世界の究極的な根拠としての形而上学的真実の不在を意味する。それはいわば「神の死」と同義であり、そのニヒリズムの極限形が永遠回帰なのである。世界は無意味であり、言い換えれば、世界というシニフィアンは、自らに対応する究極的なシニフィエとしての真実を持たない。とすれば、そうした真実に収束することによって保たれていたはずの事物間のコンテクスト、シニフィアンとシニフィエの連鎖もまた崩壊し、世界はバラバラになった記号の集積となる。デ・キリコはこれを「記号の孤独」と呼んだ(注8)。さらにこの「記号の孤独」を説明するために、デ・キリコはショーペンハウアーの思想を援用する。ショーペンハウアーによれば、芸術の目的とは形而上学的な物自体の純粋な表象としての「イデア」を認識することであり、それは根拠律からの解放によって可能となる。ここで言う根拠律とは、人間の認識において事物を相互に関連づける時間、空間、因果性などを指す。これは上述したように事物間のコンテクスト、シニフィアンとシニフィエの連鎖と言い換えることができる。だがデ・キリコがニーチェの「生の無意味」に拠っている以上、根拠律からの解放によってもたらされるのは形而上学的なイデアではありえない。そこでもたらされるのは逆にそうしたイデアなど存在しないという啓示である。つまり形而上絵画とは、形而上学的領域を指し示すことによって、逆説的にそこには何もないことを、いわばその形而上学的「無意味」を示す絵画なのである。3.ショーペンハウアー、ニーチェ、フロイト次にショーペンハウアー、ニーチェとフロイトの関係を確認しておこう。フロイトは直接的な影響を否定しているものの、ショーペンハウアー、ニーチェが精神分析の「先駆者」であることを認めている。「自己を語る」(1925年)では次のように述べら
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