鹿島美術研究 年報第37号別冊(2020)
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― 269 ―― 269 ―㉕ 下村観山の仏伝図についての研究研 究 者:神戸大学大学院 人文学研究科 博士課程後期課程  宮 﨑 晴 子はじめに釈迦の前世の物語である本生譚および釈迦の生涯における事蹟を絵画化したものを仏伝図と呼ぶが、日本において仏伝図は、涅槃図を除けばあまり発展しなかったというのが通説である(注1)。しかし、近代以降においてはその言説に反し、多くの仏伝図が制作されることになる。下村観山(明治6〔1873〕-昭和5〔1930〕)は、仏伝から主題を取った「仏誕」(明治29年、東京藝術大学蔵)や「闍維」(明治31年、横浜美術館蔵)を制作したことで知られ、それらは観山の代表作に数えられる。なかで「闍維」は、画題の新しさや、構図に関して西洋美術から範を得たことなどがこれまで多く示唆されたが、未だ詳しい研究がされてきたとは言いがたい。この研究は、本作の影響源、主題の選択理由を探ることによって、近代における仏伝図のあり方を考察する一端となることを目的とする。1.作品と先行研究近代以降に制作された仏伝図の代表的な作例として、下村観山による「仏誕」〔図1〕、菱田春草(1874-1911)による「拈華微笑」〔図2〕(明治30年制作、東京国立博物館蔵)、そして同じく観山による「闍維」〔図3〕などが挙げられる。それらの作品群については、近年研究の深まりを見せる。金容澈氏は、春草筆「拈華微笑」および観山筆「仏誕」において、古画研究の成果の反映、特に法隆寺金堂壁画からの引用を指摘している(注2)。それを受けて中野慎之氏は、これら仏伝主題画が多く生み出された理由として岡倉天心を中心とした懸賞仏伝主題画応募の取り組みを指摘し、同時に岡倉の指導による、仏画制作における仏教の源流としてのインド美術への回帰を論じる(注3)。また、春草と大観が明治36年(1903)に渡印した後には、両者によっていくつかの仏伝図が制作され、その動向が他の日本画家へ波及していくが、それらの作例についての研究もある(注4)。下村観山による「闍維」は、明治31年(1898)の第一回日本美術院絵画共進会(第五回日本絵画協会絵画共進会と合同)に出品され、銀牌二席を受けた作品である。画面を見てみよう。画面中央に釈迦の亡骸を入れた金棺が置かれ、それは今まさに燃えて白い煙が立ち上っている。その周りを弟子や在家の信者たちが取り囲み、悲しみの

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