鹿島美術研究 年報第37号別冊(2020)
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― 271 ―― 271 ―槃図は中央に大きく仏涅槃図(あるいは涅槃変相図)を描き、その周縁に帯状に釈迦の生涯における事蹟が描かれたもの、と区別できる(注11)。まず、涅槃変相図について見ると、それらは画面中に区画線を用いず、一つの画面に仏涅槃を中心にその前後の事蹟を描く第一グループと、涅槃図を中心とした画面の周縁に当麻曼荼羅のように区画線を設け、その中に前後の事蹟を描く第二グループに分けられる(注12)。第一グループは、広島・耕三寺本、香川・常徳寺本などに代表され、場面選択や図様はほぼ共通する(注13)。それらには、釈迦の亡骸を入れた棺が燃えゆく中、釈迦の入滅を知って馳せ参じた迦葉のために棺から釈迦が両足を出してみせる場面が描かれるものの〔図4〕、荼毘の場面は存在しない。一方、涅槃変相図の第二グループの中で、愛知・真珠院本に荼毘の場面が描かれるが、これは特異な例だと言える(注14)。帯状に涅槃図を取り巻く形態をとる画面の右側中央に、燃えさかる棺とそれを見守る菩薩と弟子たちが見える。次に、仏伝涅槃図の中に荼毘の場面が描かれた作例を探すと、それは京都・高台寺本、鹿児島・龍巌寺本〔図5〕のなかに見つけられる(注15)。いずれも、高楼の上にある棺が燃やされ、周辺を菩薩や仏弟子が取り巻くという図様である。以上、涅槃変相図および仏伝涅槃図の中に荼毘の表現を求めたが、荼毘の場面が選択されることは稀であると言える。また、少ない先行作例を見ても、それらはいずれも高楼の上に棺があり、火炎表現が強調されるなど、観山「闍維」と比較した際に直接のつながりを見出すことはできない。2-2.影響源ここで「闍維」の影響源について考えたい。画面左側にいて観者に背を向けてひざまずき、菩薩に寄りかかって右手を顔に当てて悲しむ人物〔図6〕は、日本の古画には見られない特徴的なポーズを取っている。画家は「闍維」を発表したのち、明治32年(1899)に高山樗牛(1871-1902)が著した釈迦の伝記『釈迦』(注16)の挿絵を手がけており、その荼毘の場面では、おおむね「闍維」の構図を踏襲している〔図7〕。しかしそこでは、金棺の方を向いてひざまずき祈る人物が多数描かれるが、「闍維」のように金棺とは逆の方向を向いてひざまずき、側に立つ人に寄りかかるポーズを取る人物は描かれない。逆に言えば、このことから、この特徴的なポーズを取る人物が大画面作品である「闍維」の画面構成のうえでアクセントとなり、重要な役割を担っていると言うことができる。この人物を手がかりに影響源を探ると、観山が旧蔵していたという写真資料〔図

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