― 273 ―― 273 ―フェノロサが観山の「闍維」をジョットになぞらえて高く評価する言説から分かる。フェノロサは1898年11月12日のThe Japan Weekly Mail に“THE PRESENT EXHIBITHIONSOF PAINTING”と題した批評文を寄せており、その一部が美術雑誌『日本美術』において訳されて紹介されている。その中でフェノロサは、明治19(1886)年の展覧会以来、観山の作品に注目し続けていることを述べ、「爾来氏は研究を積み、今日に於ては日本新派の泰斗として立脚すると猶ギォットが伊太利に於けるが如し。(中略)之実に狩野芳崖が其生前に長嘆しつゝ言ひし預言より出でゝ頗る確実なる者なり、若しも芳崖をギウンタビサノとすれば雅邦氏は其のシマビユーにして、茲にはギォットーたる一人あり(注21)」と述べている(注22)。ここまで、近代以前の仏伝図における荼毘の図様を確認し、観山がそれらを踏襲しているとは言えないことを確認した。その上で、観山蔵とされる写真資料の中の一部である当時ジョット作とされていた作品の図版を影響源として提示した。次章では、荼毘の場面が主題として選択された理由について考察する。3.忠孝の概念との関わり観山が「光明皇后」を出品した明治30年(1897)第二回日本絵画協会絵画共進会の展覧会評に、以下のものがある。 而して本会画家材料の選択、動もすれば国風と相称はざる物あるは、余の遺憾とする所なり。試みに見よ、下村観山の光明皇后、菱田春草の微笑、山田敬中の微音、橋本雅邦の臨済一喝の如き、皆其の仏教に取れり。(中略)仏教素より高妙なりと雖も、忠孝の意に切ならず。此の数図に対しては、或いは菩提心は生ずべきも、果たして能く忠孝の心を磨励するを得べきか。(注23)この記事を著した山下重民(1857-1942)は、『絵画叢誌』を発刊していたのと同じ出版社である東陽堂で、日本初のグラフ雑誌『風俗画報』の編集者を務めた人物である。仏教は忠孝の概念を重んじない故に儒教よりも劣った教えであるという論調によって、近世以来の儒学者たちによって批判されてきた(注24)。しかし一方で、観山の師である岡倉天心(1863-1913)は、儒教と仏教を同等に扱う言論を残している(注25)。例えば、日本における文化の形成を説明する文脈では、「第一に日本に入れるものは儒教主義にして、我が社会には非常の利益を与へたり。次に仏教伝来し、儒教と
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