― 274 ―― 274 ―共に行はれ、(中略)我が邦人が天地間のことを解釈するには第一の主義に偏するなく、種々の知力を与へられたり。(中略)日本にては、不思議にも今日に至るまで儒仏並行して行はる(注26)」と述べている。観山が天心の影響を強く受けていたことは、よく知られている。日本美術院が茨城の五浦に移転した際に観山、大観、春草と行動をともにした盟友である木村武山(1876-1942)の言葉に、「岡倉先生は学生時代から、最も下村さんへ目をかけてゐた。それは横山さんよりも誰よりも一番であつた。従つて下村さんは岡倉先生の非常に熱心な指導を受けたもので、謂はゞ岡倉先生の頭が下村さんの腕を動かしてゐるかの感があつた(注27)」というものがある。これは、観山が「仏誕」、「嗣信最期」を制作した時期について語っている文章に引き続いて述べられていることで、おそらくその頃の観山の様子を指した言論だろう。廃仏毀釈の後の仏教復興に尽力した真言僧である雲照(1827-1909)は、雑誌『太陽』において、日本の宗教史を繙く談話の中で「聖徳太子は実に神統仏教、及び儒教の開祖なり(注28)」と語っている。加えて、思想家の井上哲次郎(1856-1944)は、キリスト教を批判する言論(注29)の中で、仏教を擁護して「又仏教には詳密なる忠孝の教あり(注30)」と述べ、その後に忠孝の概念が説かれる教典を列挙する。このように、当時、歴史画題のなかでも仏教主題に対して忠孝を重んじない題材であるとして批判する言論がある一方で、仏教と儒教に優劣をつけまいとする思想も発表されていたことを確認した。観山は、先述した山下重民氏の言論によって批判されたのち、第三回の日本絵画協会絵画共進会には明らかに忠孝の思想を含む「嗣信最期」を制作している。また「闍維」が発表された第五回の同共進会は、横山大観が「屈原」を発表し観山と同じ銀牌二席を得ている。塩谷純氏は、同じく第五回同共進会に出品された小堀鞆音の「恩賜の御衣」について、大観が「屈原」を師である天心の東京美術学校追放に際する心境になぞらえて制作したと懐述していることから(注31)、小堀鞆音の作品にも同じ意図があったのではないかと推測している(注32)。観山による「闍維」は、師の心境を代弁する手法を取ってはいないが、生涯の師である仏陀の死を悼む弟子や信者たちの姿を描くことで、仏教主題によって忠孝の念を表すために荼毘の場面を選択した可能性が考えられるのである。おわりに観山の「闍維」ははこれまで主題の近似性ゆえに同画家の「仏誕」と同じ文脈で語られることが多かった。しかし「闍維」においては仏教主題から画題を採りながら図
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