― 17 ―― 17 ―れている。〔……〕精神分析とショーペンハウアーの哲学との広汎にわたる一致についても、私が彼の学説を熟知していたからだということに帰してはならないのである。 ─ 彼は感情の優位性と性愛のすぐれた意義とを重んじた人であるばかりではなく、抑圧のメカニズムさえも知っていた。─ 私がショーペンハウアーを読んだのはずっと後になってからのことだったのである。もうひとりの哲学者ニーチェについていえば、彼の予見と洞察とは精神分析が骨を折って得た成果とおどろくほどよく合致するのであるが、いわばそれだからこそなお、それまで長いあいださけていたのであった。優先権よりは公正さを保持することのほうが大切だと思われたからであった(注9)。また「精神分析のむずかしさ」(1917年)において、フロイトはショーペンハウアーにおける形而上学的な「意志」を精神分析における欲動〔Trieb〕と同一視している。 無意識の精神の動きがあるという考え方を受け入れることが科学と生に対して影響するところがいかに大きいかを、きわめてわずかな人しか明らかにすることができなかった。しかし、ここで急いでつけ加えて言っておきたいのは、精神分析がこの道をはじめて歩んだのではないということである。ここで、先駆者として有名な哲学者たち、とくに偉大なる思想家ショーペンハウアーの名をあげておこう。彼が唱えた意識されざる「意志」は、精神分析がいう心的衝動〔欲動〕と同一視される。それにこの思想家は、忘れることができないみごとに表現されたことばを用いて、人びとに対し、つねに過小評価されてきた性的衝動の重要さについて警告を発した(注10)。さらにフロイトのいわゆる第二局所論において、無意識の領域を指す「エス」という名称は、ゲオルゲ・グロデックを介してニーチェから取られたものである。『続精神分析入門』(1933年)では次のように述べられている。〔……〕われわれには、自我の知らない心的領域を無意識体系と名づける権利はありません。何故なら無意識性はそのような心的体系の独占的性格ではないからです。それでは「無意識的」ということをもう体系的意味には使用しないで、従
元のページ ../index.html#29