― 280 ―― 280 ―㉖ 字径を中核的な発展要因とする書道史再構築の試み研 究 者:筑波大学 芸術系 准教授 尾 川 明 穂1.問題の所在書道の歴史においては、これまで実に多様な書体(大きく篆書・隷書・草書・行書・楷書に分類されるスタイル)・書風(時代・個人などによる字形の違い)などの諸様式が生まれており、その要因を探る論考も多い。例えば、杉村邦彦「文字造形に現れた時代性」は、書写素材や環境・精神などを挙げて、その書風の所以を説明する(注1)。個別の事象に対しても論及が見られ、例えば、楷書の発生については、福田哲之氏によって紙の普及に伴う書写領域の拡大が要因であると推測されており(注2)、また、王羲之書法の革新性に関しては、松村茂樹氏により王が偏鋒(筆を傾け菱形の線条を表すこと)を用いていたためと指摘されている(注3)。上記でも特に素材・書写領域・執筆法は、書体や書風の変化に関わる重要な要素と考えられるが、これらのみでは、名筆がいかにして誕生し、なぜ一時期しか持続しなかったのかなど、説明が困難なものもあろうかと思われる。その要因の一端を見つめるためには、何かを書こうとする際の、運動の微妙な機序に思いを致す必要があろう。本研究で特に着目するのは、字径(文字の大きさ)である。極めて単純な視点ではあるが、近代以降、他の芸術分野と同じく影印での紹介が盛んとなり(注4)、掲載誌面の大きさにより拡大・縮小されたために、書跡の大きさに注意が払われることは少なかったと見られる。また、現在の毛筆制作(特に漢字)においては、大型の壁面作品がほとんどを占めるようになり、それに伴ってか細字(本研究では概ね字径3cm以下を指す)での学習・制作はほとんどなされないという、史上最も特殊な状況となっていることに留意する必要があろう。また、書体・書風を大別すれば、A自然発生的に生じたものと、B個人の書風に倣うなど特定の様式を意識したものの2種に分けられると思われるが、従来では両者を区別することなく扱われてきている傾向にある。これは、運筆(筆運び)に抵抗がある画仙紙を用い、机・床で制作することが一般的になったことも関係しよう。様々な書体・書風の拡大臨書(模写)が可能であり、字を形づくる意識が比較的強くなっていると考えられ(注5)、書体・書風の変遷の研究においても書者の強い創意を想定する向きがあるためである。執筆時に感じる紙との摩擦を「筆蝕」と称し、これを書く行為の本質と見なす説があるが(注6)、これもかような制作環境にあることに起因していよう。抵抗は紙絹などの素材・質によって大きく変化するものであるため、
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