鹿島美術研究 年報第37号別冊(2020)
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・ 「草書答孫伯観詩」では字の概形(おおよその形状)が横長となり、字と字の間・ 「草書答孫伯観詩」では、円転する線条が多用される。特に、字の右上から左下にかけて伸びる楕円上に長画が分布する。特に、2行目9字目の「落」字に至っては、くさかんむり横画からさんずいに向かって左下に折れるべきところが、横画の上を通って左下に向かっている。これは、字の正確な骨格よりも、手の機能に即した書きやすさを優先したためと推測できる。― 281 ―― 281 ―その微細な状態に目を向けなければならない。以上のことから、原寸図版やマイクロスコープなどを用いることでその状況を弁別し、書写領域の変化による字径の漸変と、書写材料の平滑度の変化、また執筆姿勢の工夫が上記Aを生ぜしめ、書体・書風に多様性をもたらしたであろうことを導いてみたい。2.字径からの検討―拡大書写における個人書風の変化について―いわゆる「明末浪漫派」などの条幅(縦長の紙絹)を善くした書家を中心に、明代後期の書家については専論が多く備わる。個人の書風変遷なども多く検討がなされているが、そのひとり黄道周(1585~1646)については、絖本(綾本)の長条幅「草書王世貞七言絶句軸」〔図1〕(五島美術館蔵/宇野雪村コレクション、縦165.7×横49.1cm)により新たな考察を加えることができる。落款の「黄道周印」白文方印、「一鳳五化」朱文方印の組合せから、46歳以前の比較的早年の筆と推定される希少な作例であり(注7)、後に黄が確立した書風とは懸隔がある。試みに、後年の筆とみられる「草書答孫伯観詩」〔図2〕(澄懐堂美術館蔵、縦154.0×横66.5cm)と比較してみると、以下のことに気づく(注8)。も詰まっていく。強調される。かような変化は、大きな紙絹への拡大書写に応じたものであり、ここに従来の細字古典書法からの変化が見通せよう。集帖(拓本複製による名筆集)の刊行事業の隆盛によって、当時の学習にも集帖が活かされたものと思しいが(注10)、大書においては十分ではなく、新たに対処した結果生じたもの(前述A)と考えられる(注11)。・ 「草書答孫伯観詩」では字間を詰める一方、行間は離れていき、縦の行の流れが・ 「草書答孫伯観詩」では長縦画の連関を図り、行を通貫させる。この方法は、既に陳淳(1484~1544)晩年の書跡に対して指摘があるが(注9)、黄についても同様の工夫がなされていると見られる。

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