― 282 ―― 282 ―3.書写材料からの検討―紙絹の吸水性が及ぼす書風への影響について―本項では、料紙の吸水性と書風の変化の関わりについて、大東急記念文庫が所蔵する「賢愚経断簡」によって見ていきたい。本品は、仏典「賢愚経」を書写した奈良時代の写経切「大聖武」を8葉押した帖である。全4開で、片面ずつに1葉ないし2葉が貼りこまれており、複数巻の切で構成されている。稿者は以前、「賢愚経」13巻本に照らして各葉の巻数を調査し、また各葉の測色、マイクロスコープ撮影の結果を報告した(注12)。ここで注目されたのは、「大聖武」が書写された荼毘紙(マユミ製の料紙)はそれほど均質ではなく、巻が早いほど上質であった可能性が考えられることである。第4開右〔図3〕に貼りこまれている巻11「無悩指鬘品第四十五」(注13)の一葉(縦26.8×横8.3cm)と、巻1「梵天請法六事品第一」の一葉(縦26.8×横2.3cm)を比較してみたい。紙色の違いから一見して均質でないことがわかるが、この色の差はマユミの樹皮の内側にある白皮繊維の多寡によるものと判断される。それが多い後者の巻1〔図4〕は表面が白く緊密で、吸水が少ないためか墨線の濃淡差が明瞭に現れている。白皮繊維の少ない巻11〔図5〕は薄茶色を呈し、繊維も太く長い。また、紙には多少のにじみがあり、吸水性が高いことが窺える。ここでは、料紙の吸水性の差による書風の違いを確認しておきたい。試みに、上記2葉の「王」字を比較すると、・ 巻11では、横画起筆(打込み)のストロークがわずかに長くなっている。また、転折(折れ)の抑えが強くなっており、手指の動きが大きくなっていると思われる。均質な書き方を求められるであろう経巻に対しても、かような差が認められることから、同一の書風・書法を志向していても、料紙の差によって変化してしまう(場合によっては書分けをも行っていた)可能性が示唆される。これは、唐代の孫過庭「書譜」(台北・国立故宮博物院蔵)に見える前後半の紙質・書風の差とも似た傾向を示す(注14)。かような傾向は、例えば生紙に書かれた書状類等に見られるような字の簡略化・拡大化に繫がりうるものと見てよいであろう。平安後期に全盛を迎えた流麗な古筆(仮・ 巻11では、字径が大きくなる。これは、多分に運筆の際にかかる抵抗が大きくなることに起因するものと思われる。無論、筆者や罫幅、筆墨の違いによる可能性も考えられるが、当該冊第3開右の巻9断簡〔図6〕においても字がわずかに大きめに書かれることから、その傾向は確かであろう。
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