― 283 ―― 283 ―名書跡)が鎌倉以降目立たなくなったことについても、この吸水性による違い、特に精緻・整斉な書体・書風はにじむ紙に向かないことを考慮せねばならないだろう。4.書写体勢の想定からの検討―身体性が及ぼす書風への影響について本項では、書く際の体勢が書風に与える影響について、中国唐代の代表的楷書碑である顔真卿(709~85)「顔氏家廟碑」〔図7〕から推測してみたい。顔の楷書碑については以前論じたことがあるが(注15)、本項では想定される執筆状況を写真によって示してみたい。「顔氏家廟碑」は780年、顔真卿72歳の書丹(碑面書写)になるもので、陝西省の西安碑林に現存する。縦約239×横約123cmの碑陽・碑陰(碑の両面)と、幅28cmの碑側(両側面)に約4~5cmの字径で書かれており、楷書碑の中では大きめの字径にあたる。顔特有の「燕尾」と称される右払いを有するほか、他の楷書遺品にはあまり窺えない「筆押さえ」(例えば「之」第3画の起筆後の跳ね上がり)も特徴的である。顔の楷書は明朝体の造形にも活かされているとされるが、特に後者の筆押さえは、タイポグラフィーや文字情報の基盤整備、文字教育の分野でも扱いが懸案となっているものである(注16)。これらの特徴は意匠的なものとして注目されるが、顔の楷書における出現頻度から見て、前述Aの通り自然に書きうるものとして捉えなおす必要があろう。以上の特徴と、太い点画、字の歪みに注目して臨書しつつ〔図8〕、その執筆体勢を想定してみると、以下の通りとなる(注17)〔図9〕。書丹の際は、倒した石の上に四つん這いとなり、手首から薬指に体重をかけて書いたものと見られる。これには、前腕を浮かせることで膝・腰をあまり曲げずにすむ利点がある。また、字に対して正面に座った場合、書写の際の自由度があるものの、手指を大きく動かす必要が出ることから、長時間の書丹には向かないようである。実際には、左側にずれ右斜め約30度の角度で座ったのではなかろうか。左縦書きであるため、書写済みの部分に触れずにすむ利点もある。本碑には縦横に升が刻されており、字の方向は正しく把握できたであろう。書丹の際は、特に親指と人差し指を深く曲げる必要があるが、字の左下においては手首の右への捻りも効果的に用いたのではないか。上述の筆押さえは、筆先を整える効果もあろうが、字の左下部で親指・人差し指を曲げながら同時に手首を右に捻る運動が難しいことから、一旦手首を右に捻り、途中から親指・人差し指を曲げていったものと思われる。なお、毛筆構造も関係している可能性を考慮する必要もあろう。北宋・熙寧年間
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