― 18 ―― 18 ―来そう呼ばれてきたものに対して、誤解される危険のないような、さらに適切な名称を与えることにしましょう。ニーチェの用語に倣い、G・グロデックの示唆に従って、われわれは今後無意識をエス〔das ES〕と呼ぶことにします(注11)。三者の思想の系譜を整理してみよう。まずショーペンハウアーは、カントにおける物自体と現象の区分を踏襲し、物自体を「意志」、その現象を「表象」として規定した。ここで言われる意志とは、主体の意志や神の意志といったものではなく、「生への盲目の意志」であり、自然や欲望のエネルギーの、それ自体としては説明不可能な働きを指す。ショーペンハウアーの形而上学の影響下から出発したニーチェは、処女作『悲劇の誕生』(1872年)において、ショーペンハウアーの意志と表象をモデルとして「ディオニュソス的なもの」と「アポロン的なもの」という図式を設定し、ここから古代ギリシャにおける悲劇の問題を捉えることを試みている。後にニーチェはショーペンハウアーの批判者となるが、それは一つにはショーペンハウアーが自らの形而上学を「意志の否定」、つまり欲望の否定に帰結させることにより、結局のところキリスト教的な倫理に近づいてしまうからである。キリスト教を弱者のルサンチマンから生じたものとし、生を弱体化させるものとして捉えるニーチェは、あるがままの生、あるがままの欲望の肯定のために「力への意志」を唱える。そして、フロイトもまた臨床的な精神医学の立場から、ショーペンハウアーと同様に欲望(欲動、特に性的リビドー)への考察を基盤とする精神分析を創始し、さらにニーチェを援用して第二局所論における無意識の領域をエスと名付けたのだった。このように欲望を人間あるいは世界の根本とみなす点で三者の思想は共通している。4.「生の無意味」から精神分析へではショーペンハウアー、ニーチェ、フロイトの思想的系譜から、デ・キリコにおける「生の無意味」の問題を精神分析に結びつけることは可能か。ショーペンハウアーは人間の認識する世界は全て脳内の表象であるとした。デ・キリコが第一次大戦中に描いた「形而上学的室内」のシリーズは、こうした世界観を直截に表現している〔図2〕。そこで室内は脳のメタファーであり、そこに配される画中画は脳内の表象のメタファーとなっている。本来であれば、この室内には外部があり、そこには形而上学的な物自体が設定されるはずである。だが既に述べたように、形而上絵画とはニーチェに基づいた「生の無意味」、「神の死」の絵画であり、世界の背後には何も存在しないことを示すイメージである。それ故、この室内には外部が存
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