― 291 ―― 291 ―く逸れたガリアの兵士像が挿入されたのだろうか。第三共和制期の区庁舎装飾における古代ガリアの表象は、僅かながら存在する先行研究によって指摘されてきた。テレーズ・ビュロレは、第三共和制のイデオロギーを表した「世俗の福音書」とも言うべき区庁舎装飾画の主題群のなかで、古代ガリアの家族の描写を挙げ、兵士を鼓舞する母子像に付与された「祖国ガリア」の象徴としての位置づけを論じている(注3)。またピエール・ヴェッスは、第三共和制期の公共装飾にみられる古代ガリアの主題が、歴史学的あるいは考古学的追究というよりむしろ、近代フランス国家の起源としての「ガリア神話」を提示するものであったことを指摘した(注4)。このように「フランス人の祖先」として国民アイデンティティの形成に利用されたガリア人認識とその歴史的変遷に関しては、歴史家クシシトフ・ポミアンが詳述している(注5)。さらにガリア表象をめぐる近年のシンポジウムに際してエレーヌ・ジャゴは、19世紀のサロンにおけるガリア主題の絵画及び彫刻と、政治的イデオロギーの関係という問題に切り込み、1880年代をナショナリズムのイデオロギーと図像の転換期と位置づけている(注6)。本稿では、行政文書や批評等の一次資料からレヴィによる16区庁舎の連作の注文と受容をめぐる状況を跡づけ、人生の諸段階の主題と古代ガリアの表象の意義について考察を試みる。2.パリ16区庁舎装飾画「人生の諸段階」連作の注文経緯エミール・レヴィ(1826-1890)の経歴は19世紀アカデミスムの画家の標準的な経過を辿った(注7)。国立美術学校で学び、ローマ賞の受賞後の留学を経て、ルーヴル宮天井装飾等の大規模な公共事業を担った後、パリの区庁舎装飾画としては1876年に7区庁舎婚礼の間装飾連作の注文を受けた。その後1879年に19区庁舎婚礼の間装飾コンクールに応募し最終選考で落選したが、1883年に16区庁舎半円形の間装飾に関して再び注文を受けた。19区庁舎装飾画コンクールの審査経緯は、審査委員の一人で報告者を務めた画家ポール・ボードリーが記録している。二位となったレヴィの応募作の詳細は後述するが、とりわけ若い母親像が審査員に好まれた(注8)。この1880年の審査過程で、「16区の庁舎は、建築的な配置がレヴィの応募作の構成に適している」(注9)と言及されたうえで、注文決定権のある市議会への依頼が決まり、当コンクールの評価が直接的に16区庁舎の注文に結びついたことがわかる。16区庁舎装飾の注文時の依頼内容については、庁舎の実地調査を行った分科委員会
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