鹿島美術研究 年報第37号別冊(2020)
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― 19 ―― 19 ―在しない。外部はそのまま内部と一致し、世界は否応なく内在的なものとなる。またニーチェによれば、形而上学的真実を廃棄したとき、世界は無限の解釈可能性を開示する(注12)。究極的な真実、唯一の真実の存在を否定すれば、全てが解釈となる。世界は無意味であるからこそ、そこに無限の解釈可能性が生じる。両者は表裏一体なのである。だがここにおける解釈とは、主体としての「私」の理性によって行使される解釈ではない。ニーチェは『善悪の彼岸』(1886年)において、デカルト的主体としての「私」の仮構性を批判している。〔……〕思想というものは、〈それ〉が欲するときにやって来るもので、〈われ〉が欲するときに来るのではない、したがって主語〈だれ〉が述語〈思う〉の条件であると主張するのは事実の歪曲44である、ということだ。要するに、(それが)思う〔es denkt〕、だがしかしこの〈それ〉〔es〕をば、ただちにあの古くして有名な〈われ〉だとみなすのは、控え目に言っても、一つの過程、一つの主張にすぎないもので、ましてや〈直接的確実性〉などでは決してない。つきつめたところ、この〈それが思う〉というものさえすでに言いすぎである(注13)。「我思う」、つまり「私は考える」と言う場合、実際には「考える」ことの方が、主体に先立っているのであり、そこに前提として「私」を仮構することは、主語と述語の文法的順序から生じた錯覚に過ぎないとニーチェは述べる。たとえ非人称的な「それ」であっても、「考える」ことに主語を立てること自体が既に行き過ぎなのである。とはいえ、これを言語化するには、「それが思う」「それが考える」とでも言うしかない。このニーチェが言う「それ」=「エス」によって、フロイトが自我の無意識的領域を名指したことについては既に触れた。つまり「生の無意味」の認識は、世界から形而上学的外部を消去することによって、これを人間の心的内部と一致させ、その無限の解釈、投影の場に変える。さらにここで言う解釈とは「私」の理性の働きではなく、「それ」=「エス」から発する非理性的な欲望の働きである。そして、精神分析が非理性的な欲望の働きを事後的に理性によって跡付ける理論だとすれば、それは必然的にデ・キリコの形而上絵画と親和性を持つことになるだろう。結論以上、デ・キリコと精神分析の関係について再考を行う糸口を示した。形而上絵画

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