― 302 ―― 302 ―江戸時代前期の武家社会において、舞楽図が何を象徴したのかという点についても考察を試みたい。1.守景の人物表現と構図守景本に見られる独自の画風として筆者が注目するのは、左右隻で楽器を演奏する楽人の面貌と画面全体の構図である。久隅守景は、幕府奥絵師狩野探幽(1602-74)の有望な弟子であったが、後に狩野派を離れて加賀など北陸に滞在し、晩年は京都で過ごしたとされている(注5)。画業については不明な点も多いが、わずかに制作年代が判明するものとして、寛永18年(1641)の京都の知恩院小方丈下段の間《四季山水図》(注6)、寛永19年(1642)の滋賀の聖衆来迎寺客殿の障壁画《十六羅漢図》(以下、来迎寺本と呼ぶ)(注7)、そして明暦年間(1655-58)とされる富山の瑞龍寺《四季山水図襖》がある(注8)。また、福井利吉郎氏により紹介された《劉伯倫図》(富山市佐藤記念美術館)、《芦葉達磨図》(所在不明)にある賛の年記から、守景の活動期は寛永から元禄期にかけて60年にも及ぶと推定されている(注9)。守景の人物表現といえば、《納涼図屏風》(東京国立博物館)に描かれた男女と子に見られるような、少ない筆数で人物の個性を感じさせる瀟洒かつ情感のある描写がよく知られているが、探幽の下では伝統的な漢画の画風で仏画や道釈人物画などの学習もよく行われた。守景本の楽人の面貌は一人一人が異なっており、楽器に息を吹き込む際の眉をひそめる表情や口元の描写などに漢画系人物画を思わせる強い筆致もあるが〔図3〕、中には細く均一な輪郭線で菩薩などの仏画を想起させるふくよかで穏やかな面貌もある〔図4〕。こうした面貌表現と類似するのが、守景の羅漢図である。来迎寺本に描かれた羅漢の面貌や着衣に見られる衣文線は、肥痩を活かした謹直な筆致といえるが、土井次義氏は、優秀とはいえず、むしろ平凡の作と評している(注10)。同じ主題で、神奈川の光明寺所蔵《十六羅漢図》(以下、光明寺本と呼ぶ)は、制作年代は不明であるが、太めの描線は来迎寺本に比べると強くのびやかに引かれており〔図5、6〕、吉澤忠氏も、描線の修練の後をよく示していると評している(注11)。守景本にはこの光明寺本と類似する面貌がみられる。特に右隻第一扇の楽人は、光明寺本と共通の粉本を用いたことが推察できる(注12)。守景本の均一な輪郭線も光明寺本と共通する。しかし、光明寺本の羅漢の着衣の衣文線は流麗であるのに対し、守景本の楽人の衣文は打ち込みのある堅い直線で描かれている。これは狩野派にもみ
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