鹿島美術研究 年報第37号別冊(2020)
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― 303 ―― 303 ―られる特徴である。このことから、守景は、狩野派内での粉本学習の成果を十分に生かしながら守景本を制作したことがうかがえる。画面の構図について注目すると、守景本は背景を描かず少ないモティーフで余白を生かし、舞楽という画題を強調している。また、右隻の楽人は左隻に向かって楽器を演奏し、反対に左隻の楽人は右隻に向かって演奏していることで、鑑賞者の視線は右から左、そして再び右へと移動する。筆者はこうしたモティーフの配置と構図が、鑑賞者の視線を誘導する守景の工夫であると推察する。同じような工夫がみられる作例として、守景の《賀茂競馬図屏風》(馬の博物館、以下、馬博本と呼ぶ)〔図7〕を挙げたい。賀茂競馬は京都の上賀茂別雷神社の境内の馬場で行われた年中行事で、先行する多くの作例がある。馬博本は紙本墨画淡彩の六曲一双屏風で、画面は両隻に渡した埒に沿って競い合う三組の乗尻と神事に関わる人々のみの、最小限のモティーフで構成されている。池田芙美氏も、守景はモティーフを限定することで、賀茂競馬というテーマをより強調したと指摘する(注13)。筆者はさらに、この構図が鑑賞者の視線を右隻の鳥居から左隻の最終地点の乗尻まで一気に移動させ、競馬の速度感を共有させるという守景独自の工夫であると指摘したい。さらにいえば、守景の代表的な作品として知られている《四季耕作図屏風》(東京国立博物館他)のうち、通常の屏風の画面とは反対に左から右へと四季が移り変わる作例がいくつかある。松嶋雅人氏は、北陸の人々にとってより四季の移り変わりを容易に感じ取ることができる構図であるとして、守景の北陸滞在と関連付けているが、これも鑑賞者の視線を意識した工夫であるといえよう(注14)。以上のことより、守景本には、守景による狩野派での粉本学習の成果と構図についての独自の工夫が見られる。制作は、狩野派での活動をしながら自己の画風があらわれはじめる、寛永19年(1642)の来迎寺本制作に近い時期とみることができるのではないだろうか。2.江戸時代前期の舞楽図屏風と守景本次に、守景本の舞楽図としての特徴について、同時代の舞楽図屏風と比較しながらみていきたい。江戸時代前期には、金地に曲目ごとの舞人を多数描き込んだ六曲一双の舞楽図屏風が流布した。そのうち狩野派の画家あるいは狩野派の画風によって、曲目、構図など画面全体をほぼ正確に写し取った作例が複数残されている。本田光子氏は、なかでも

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