― 305 ―― 305 ―のを推測させる。舞楽図ではないが、江戸時代初期に古楽器を描いた作例が他にも見出せる。《楽器図》二面(徳川美術館)には全面に中国古代の楽器が描かれている。吉川美穂氏は、この《楽器図》が、元和3年(1617)に完成した名古屋城二之丸御殿の楽器之間大御衝立であったこと指摘し、画面に描かれた楽器と儀物を中国の音楽書や朝鮮の儒教儀礼の指導書と照合した。また、尾張藩主徳川義直(1600-50)が儒教に深く傾倒したことから、本図の前身が名古屋城二之丸庭園内にあった儒教の聖堂の障壁画であった可能性も指摘している(注18)。守景本に先行する作例ではあるが、《楽器図》に中国古代の楽器が描かれたことは、儒教の礼楽思想を象徴するための意図的な方法であり、同じように守景本にも何らかの意図があったことがうかがわれる。《楽器図》のように、当時中国や朝鮮の楽器の図を手本として用いることは可能であった。吉川氏も照合に用いられた『三才図会』(明・王圻纂集、1607年完成)には、守景本の拍板と笙に類似する図が載っている〔図9、10〕。こうした楽器の描写から、守景本は、宮廷の舞楽ではなく仏教あるいは儒教の礼楽における舞楽を描いた可能性もある。制作に際しては、A家本系の粉本を用いながら、同時代に入手できる中国古代の楽器の図を手本として、注文主の要望に応えたものと推察できる。3.大名と舞楽図最後に、守景本が制作された時代の大名にとって舞楽図がどのように認識されていたのか、守景本を所蔵した鳥取藩と姻戚関係のある紀伊藩、尾張藩の東照宮祭礼を一例としてみておきたい。守景本の制作年代を仮に来迎寺本の制作後まもない、正保から明暦期(1644-58)とすると、鳥取藩では藩主池田光仲(1630-93)の代となる。光仲は寛永9年(1632)に従兄である池田光政との国替えによって初代鳥取藩主となった。光仲の祖母は徳川家康(1542-1616)の娘督姫であり、光仲は家康の外曽孫となる。正保2年(1645)に御三家の紀伊藩主徳川頼宣(1602-71)の娘茶々姫(1631-1708)と婚姻し、慶安元年(1648)に御国入りして親政を開始する(注19)。このように光仲は、徳川将軍家と関わりが深い。将軍家と舞楽の関わりについて筆者は、慶長20年(1615)に徳川家康が豊臣氏を滅亡させた直後に二条城で催した舞楽が、朝廷の政権をも掌握したことの象徴であると考察した。また、日光東照宮での家康の年忌法要において舞楽が催されたのは、後継者である秀忠、家光が家康の舞楽催
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