― 306 ―― 306 ―行を前例とした可能性を指摘した(注20)。茶々姫の父頼宣は、元和7年(1621)に和歌浦に東照宮を造営し、翌年には祭礼が行われた。紀伊東照宮での舞楽の奉納は、寛永7年(1630)頃に始まったとされている。この時期については、頼宣の兄で同じく御三家の義直が藩主を務める、尾張藩の東照宮に関連する以下の史料から指摘されている(注21)。『東照宮御神事記』(名古屋市蓬佐文庫)によると、尾張藩では家康の死去後まもない元和5年(1619)に東照宮が造営された。『御祭礼全書』(名古屋市蓬佐文庫)には、寛永7年(1630)に義直が頼宣と話し合って朝廷の楽人を招き舞楽をおこなったとあり、尾張東照宮と紀伊東照宮が同時期に舞楽を行うようになったことを推察させる。また、祭礼での曲目は太平楽、狛鉾、陵王、納蘇利が恒例であったとあり、紀伊東照宮でも同様であった可能性は高い。このうち太平楽の曲目について江戸時代前期の楽人安倍季尚による『楽家録』(1690年成立)によると、元来は楽人と同じ襲装束を用いていたが、この時代には、すでに廃絶曲であった秦王破陣楽の装束を用いるとある。つまり、守景はA家本系の秦王破陣楽の図様を手本としているが、実際は同時代の太平楽を描いていたといえ、尾張東照宮祭礼の曲目のうち3曲が守景本と重なることになる。このことは決して偶然ではないであろう。日光東照宮での家康の年忌法要には毎回義直、頼宣も参列した。参列した大名達にとって、舞楽は、将軍家の儀礼を象徴するものとして強く印象付けられていたはずである。尾張藩の東照宮祭礼は、この日光東照宮での舞楽を再現したといえるのではないだろうか。鳥取藩では、茶々姫を迎えた3年後の慶安元年(1648)に東照宮を勧請し、翌年造営した。鳥取藩の東照宮祭礼での舞楽についての記述は現時点では見当たらない。いずれにせよ守景本は、紀伊藩、尾張藩での東照宮祭礼、そして日光東照宮での舞楽という、宮廷ではない武家の儀礼を象徴するものとして制作されたのではないだろうか。おわりに以上のように、筆者は、守景本の楽人の面貌表現からは、守景が狩野派での粉本学習の成果を生かしていることを示し、構図は、鑑賞者の視線を誘導する守景独自の工夫であると推察した。これらの特徴から、守景本は守景自身による作品であり、制作年代は来迎寺本制作の寛永19年(1642)に近い時期と判断した。また、中国古代の楽器を描いたことは仏教、あるいは儒教といった同時代の武家の思想を反映した可能性
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