― 317 ―― 317 ―「青の時代」におけるプラクティスの特性景を描き直すも満足せず、最終的に青色の平面的な背景に塗り替えられた(注6)。Ⅱ-4.偶然による変更画面上に偶然に起きた変更を、ピカソがそのままに残した例が見出されている。「青の時代」のピカソは、数点の作品を携えてパリとバルセロナ間を往来した。《マテウ・デ・ソトの肖像》(1901年、VI.33)、《鼻眼鏡をかけたサバルテスの肖像》(1901年、VI.34)〔図2〕、《海辺の母子像》(1902年、VII.20)〔図3〕は、ピカソが1902年1月にパリからバルセロナに帰郷する際に、輸送のため新聞紙が画面に付され、その結果、新聞紙の文字が画面に残されたと考えられる作例である。《海辺の母子像》は、新聞紙の文字を画面上に残したまま、ピカソから友人のフォントボーナ家に贈られた。のちの修復によりインクのほとんどは除去されたが、一部は画面に残存し、その痕跡がポーラ美術館およびワシントン・ナショナル・ギャラリー他の調査チームにより確認されている(注7)。以上のとおり、「青の時代」において、画面および画題が変更された例は多岐にわたる。極端で劇的な変更例が際立っており、支持体の回転だけでなく、改作による画題や技法の変遷の痕跡が、各作品に封じ込められている。その痕跡に、制作時の青年ピカソの心理を重ねることは可能であろう。なお各作品における、構図、人物像のポーズ、描法に関する着想と変更は、過去や同時代の芸術家(エル・グレコ、ベラスケス、カザス、ノネイ、トゥールーズ=ロートレック、ドガ、ゴッホ、ゴーガン、ドーミエ、ロダン)や、スペインの宗教画と彫刻の伝統との対話を契機としていることは、言を俟たない。また、ピカソの画題の変更に関するプラクティスについては、ピカソ自身やハイメ・サバルテス他、画家の友人たちの証言が、その解明の鍵となっている(注8)。また、画面の変更や変化については、たとえば、贈り物としての絵画制作や仕上げ、注文主の要望への対応の他、画家が制作時に意図しなかった経年等による画面の変化、修復家による画面と支持体の変更があり、個別の調査が必須である。ピカソのリサイクルに関するプラクティスの特性を、次の3項目にまとめた。
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