― 324 ―― 324 ―㉚ 池田蕉園が描く美人画の研究研 究 者:山種美術館 学芸員 山 本 由 梨はじめに本研究は明治末から大正期にかけて活躍した女性の日本画家・池田蕉園(1886-1917)の画業を改めて検証し、顕彰しようとするものである。蕉園は浮世絵師に連なる日本画家・水野年方に学んだのち、文部省美術展覧会(文展)などの展覧会を中心に活躍し、美人画を描いて人気を得て、上村松園と並び称されるほどに名を高めた。しかしながら蕉園は大正6年(1917)、31歳という若さで病没し、その画業は当時の活躍に比して今日に多くは伝えられていない。蕉園の履歴や業績に関しては、松浦あき子氏(注1)による詳細な報告があり、本稿もそれに多くを拠っている。一方で、松浦氏以降、近年の美人画研究の進展を前提とした、蕉園の業績を総体的に見直す作業はなされていない。そこで本稿では再度蕉園の画業に注目し、今後の研究を進めるための基礎としたい。本研究では、まず、資料やインタビューから得た情報をもとに池田蕉園の人物像を確認する。次に蕉園がどのような描写により女性像を表していたか、具体的に作品分析をおこなう。1.池田蕉園の人物像蕉園は明治19年(1886)5月13日に東京都神田に生まれた。本名は由理子。百合子とも名乗った。水野年方に師事して烏合会の会員となり、明治39年(1906)の美術研精会では《わが鳩》が研精賞牌を受賞、明治40年(1907)東京勧業博覧会で2等賞を受賞。その後、文展で躍進し、明治40年第1回《もの詣》、第2回《やよい》、第3回《宴の暇》、第4回《秋のしらべ・冬のまどゐ》、第9回《かへり路》がいずれも3等賞を受賞。第10回《こぞのけふ》は特選、第5回《髪》、第6回《ひともしごろ》、第8回《中幕のあと》は褒状を受賞している。巽画会展や、大正3年(1914)の第1回再興院展にも出品した。年方の没後には川合玉堂に入門し、鈴木華邨の指導も受けている(注2)。年方門下の池田輝方と婚約するが、輝方が一時失踪、数年越しの明治44年(1911)に結婚し、以後は夫婦で活躍した。印刷出版物にも美人画を多数描き、雑誌『女学世界』、『女鑑』、『少女画報』、『婦人画報』などの口絵をはじめ、泉鏡花の小説『柳筥』の装幀と口絵、『白鷺』の口絵、徳田秋声『誘惑』の挿絵なども手掛けた。
元のページ ../index.html#336