― 325 ―― 325 ―(1)榊原家と女子学院雑誌の口絵などを手掛ける一方、それらの誌面に蕉園自身も数多く取り上げられた。文展が盛り上がり世間の関心が高まるなか、文展出品の女性画家自身にも注目が集まり、雑誌や新聞といったメディアにたびたび取材されるようになる。女性画家たちは、その画業のみならず、私生活までもが世間の興味の対象となったが(注3)、蕉園は、良家の子女であるという生い立ちや輝方との家庭生活を含め、さまざまな角度からその人物像が誌面での話題となった。文展当初から活躍した女性画家が少なかったこと、出版社が多い在京の画家であったことも蕉園がメディアに取り上げられる件数が多くなった理由と推測される。また、読者へのファッションの指南役として誌面に登場することもあった(注4)。雑誌などのメディアの動きが活発となった文展開催時期、作品を生み出す画家の存在が読者に可視化されていったが、画業だけではなく人物像にも関心が寄せられた蕉園は、特に注目を集めた女性画家のひとりであったといえる。蕉園は、父・榊原浩逸、母・綾子の間に生まれた。浩逸は旧岸和田藩士の家に生まれ、慶應義塾で福沢諭吉に学び、福沢の勧めによって米国で鉄道研究をして帰朝、日本鉄道などに勤め(注5)、絵画の鑑識家でもあったという(注6)。母の綾子は実業家で歌人の間島冬道の娘で、和歌や書に優れ、英国から帰国した国沢新九郎に、国沢没後は本多錦吉郎に洋画を学んだ(注7)。蕉園が家の女中を写生する際には母の綾子もともに写生し、本画にする際に綾子の写生を参考に修正したこともあったという(注8)。絵画を好む両親のもと、蕉園はその影響を受けて育った。蕉園は女学校である女子学院に明治31年(1898)に入学する。榊原家では蕉園だけでなく妹の文子、稲子、縫子も女子学院に通い学んだ。女子学院はキリスト教プロテスタント系の学校で、自治し自立する女性を育てることを理念とする先進的な教育をすることで知られた。同校は当時、教師の半数が西洋人であり、一日のうち午前の授業はすべて英語で行われていたため(注9)、蕉園も英語に親しんでいたと考えられる。女子の高等教育が一般的ではなかった時代に、あえて女子学院に娘たちを入学させていることから、蕉園の両親が女子教育に一定の理解があったことが推測される。蕉園は在学中の明治34年(1901)より水野年方の画塾に通い始める。年方の門下生には蕉園のほかにも市川秀方や椎塚蕉華など女性が多くいたため、学ぶ環境が整っていたと推測される。入門の翌年には女子学院を退校し、絵に専念した。本調査において、女子学院の同窓会会報を閲覧することができた。同窓会誌には同
元のページ ../index.html#337