鹿島美術研究 年報第37号別冊(2020)
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― 326 ―― 326 ―窓会費を納めた卒業生として蕉園の名が記され、居住地も掲載された。『明治44年 同窓誌』では蕉園の結婚が報じられている(注10)。当時の卒業生は、学校を去った後も母校と連絡を取り続け、蕉園も例外ではなかったのだろう。また蕉園が世を去った際には、卒業生の彙報をまとめた「会員消息」の欄に「池田由理子氏 12月1日名高い榊原蕉園さんはつひに彼の國の人となつておしまひになりました。」(注11)と記述された。また、蕉園逝去翌年の同誌には、同年に開催された同窓会で蕉園が追悼されたことが次のように記述される。 御遺族として御出席あつたのは故人池田由理子氏の妹君お二人ぎりでした。由理子さまは浮世絵に名高い蕉園女史。御良人輝方氏と毎秋上野の森を飾られた方でしたのに何といふ惜しい事でございませう。その畫から抜け出たやうな文子縫子の御二人がつヽましやかに俯向かれて遺族席に並んだのを見た時誰か若くしてゆかれた天才の帰らぬ絵筆のあとを偲ばないものがあつたでせう。私達はたヾ涙にくれました。(注12)同校同窓会は、その一年間に永眠した同窓生への追悼の機会を設けていた。上記より、学校側、そして同窓生にとって、蕉園の画家としての活躍が共通の認識であったことがわかる。蕉園は早くに退学したことにより女子学院とは距離があったように言われるが、出身者として、そして家族も多く通った学び場として、母校との繋がりはあり続けたようだ。蕉園の女学校とのつながりは、彼女の画業にも有効であったと考えられる。画壇で名を高めた女性画家のもとには絵を学ぼうとする女性が集い、彼女たちの様子は雑誌の誌面でたびたび取り上げられた。もちろん蕉園の画塾に通う女性も紹介され、例えば『婦人画報』の「筆の花」と題された記事〔図1〕において、絵を学ぶ女性の写真と、彼女が描いた美人画が並べられている。そこには「東京手形交換所監事山中譲三氏令嬢政子の君(二十一)と其筆になる美人画です。嬢は東京女学館の卒業で池田蕉園女史の門下。」(注13)との記述がある。蕉園の門下生には、このような女学校に通った良家の子女が多かったようだ。当然、蕉園の出自は、彼女たちが蕉園に師事しようとする、あるいはその親が蕉園のもとで娘に絵を学ばせようとする動機となったことだろう。

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