鹿島美術研究 年報第37号別冊(2020)
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― 327 ―― 327 ―(2)蕉園の末妹・榊原縫子さらに蕉園の人物像を探るため、蕉園の妹たちにも視野を広げたい。このたびの調査研究では、蕉園の末妹にあたる縫子(1901-1983)の娘である吉村資子氏にインタビューをおこなうことができた(注14)。縫子やその娘の資子氏へのインタビューは、松浦あき子氏による調査報告(注15)にも記載されているが、その主旨は蕉園に関する聞き取りであり、彼女たち自身については話されていない。しかしながら後述するように、縫子自身が松岡映丘に師事して絵を学び、帝展に複数回入選した画家であり、夫も日本画家の吉村忠夫であることから、縫子について記すことは、蕉園の家族について明らかとなるだけでなく、蕉園をめぐる文化圏を考えるうえでの資料ともなるだろう。以下では資子氏へのインタビューをもとに調査を加え、榊原(吉村)縫子に関する情報をまとめておきたい。蕉園が31歳で亡くなった当時、蕉園と輝方は、夫婦が田端の地に建てた家に蕉園の両親とともに住んでおり、末の妹の縫子もまだ10代で嫁ぐ前であったため同居していた。蕉園没後、輝方は飲酒するようになり、同居は困難と判断した榊原一家は田端の家を出て行ったが、それまで縫子は池田夫婦とともに暮らしていた。当時の女学校は卒業することが必ずしも一般的ではなく、前述のように蕉園も女子学院を中途退校している。一方の縫子は最終学年まで学び、同校を卒業した。資子氏によると、蕉園が逝去した際、蕉園と縫子の父である浩逸は大層悲しんで、家に絵を描く者がいてほしいと縫子に望み、それを機に、縫子は松岡映丘門下にて学んだという。縫子は帝展に計4回入選しており、その内訳は、第7回帝展《姉妹》、第8回帝展《野分》、第9回帝展《池畔》〔図2〕、第10回帝展《熙々春日》となる。荒井寛方は縫子について「女史の令妹も亦文展に何度も入選し、閨秀画家として名を知られ」たと記述しており、縫子が蕉園の妹であったことは画壇において周知の事実であったようだ(注16)。縫子の帝展出品作のどれもが女性像を描いており、当時の日本画壇において女性画家が女性像を描くことが一般化されていた風潮の反映、また美人画家であった蕉園との共通項としても指摘できる。各作品の細部の描写を確認することはできないものの、映丘から学んだやまと絵への強い意識を感じさせる。なお、縫子は映丘画塾に通ううち、兄弟子である吉村忠夫から帝展出品作の指導をうける機会を得て、それを契機としてふたりは結婚する。結婚後、縫子は制作から身を引いた。そもそも蕉園は浮世絵師に連なる水野年方に学んだが、榊原家自体はやまと絵風の絵画を好んでいたようだ(注17)。榊原家には武士の家という誇りと習慣があり、一

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