注⑴ 松浦あき子「池田蕉園研究―明治美人画の流れ」『明治美術研究学会第24回研究報告』明治美― 330 ―― 330 ―ては女性の眼元に輝きを灯すような効果を生んでいる。近代の美人画において、女性像の眼元に金で彩色する事例として知られているのは、蕉園没後の大正7年(1918)の第12回文展に発表された上村松園《焔》(東京国立博物館蔵)である。松園は本作品における「嫉妬の女の美しさ」を描くにあたって、金剛巌に教えを請い、能面で美人の嫉妬の顔を表す際には眼の白目のところに金泥を入れると教えられ、《焔》の女性像の眼の部分に、絹の裏から金泥を施したことが知られる(注20)。一方で、蕉園の描く美人画においては、彩色に金泥を用いることによって、眼元が光を帯びたような輝きをみせ、女性の柔和な表情が表されている。蕉園と共通の時代背景をもつ美人画家のなかで、眼元の表現に金泥を用いることがどの程度に一般的な描法であったかは定かではない。しかし、前述した薄墨を眼の全体に刷く描き方とともに、この金泥を用いる描法は、蕉園ならではの柔らかな印象を与える女性像を生み出す要因となったといえるだろう。これらの眼元の描写は、蕉園が「夢見るような」「儚げ」といった形容で語られる女性の姿を描き出すにあたって、重要な手法であったと考えられる。おわりに蕉園の活躍した文展期以降、女性像を描き、活躍する女性画家は数を増やしていく。上村松園と並ぶ女性画家の代表的な存在として活躍した蕉園は、その画風や業績、周知された人物像によって、日本画壇における女性画家イメージの形成に大きく寄与し、その存在はあとに続く女性たちの道標ともなっただろう。本調査研究では蕉園の生い立ち、特に生家である榊原家について詳述したが、今後、蕉園以外の女性画家たちを検証する際にも、それぞれの家庭環境という視点は有効となると考える。また、本稿で検証した蕉園の画風と、他の画家の手による美人画との影響関係については、まだ議論が不十分であり今後の継続課題としたい。蕉園は竹久夢二に影響を与えたともいわれており、その検討に際しては挿絵や商業グラフィックなど、日本画以外の作品との相互関係をつぶさにみていくことが必要となる。その検証の結果、蕉園が美人画の歴史に残した実績が改めて評価されるだろう。今後は本調査研究をひとつの基礎としながら、更なる考察を進めたい。
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