― 350 ―― 350 ―て、明治25年(1892)7月21日付から明治26年(1893)2月17日付まで、5回に渡る請求書が五姓田芳柳の名で差し出されている。これにより、本作が明治14年(1881)に家督を継いだ二世五姓田芳柳作であることがわかる(注4)。このほか、「古物学標本説明書英文原稿 四三頁」の代金を三宅米吉が請求していることから、三宅は標本調達に加えて、自ら英文の解説文を作成していたことがわかる。ほかに《日本考古学水彩画》に関係する資料として、東京国立博物館には《閣龍博覧会出陳上古遺物図下絵》(資料番号:P-697)が所蔵されている。本資料の形状は張込帖の折本、現状では46枚(頁)(うち12図が切り貼りされている)、表紙のサイズは縦37.4cm×横57.1cm、本紙のサイズは縦30.9cm×横45.5cmで、紙本着色(水彩画)で描かれている。東京国立博物館が所蔵する資料台帳(『第1区列品台帳』)には、本作の作者の記述はないが、《日本考古学水彩画》と共通するモチーフが描かれていることから、本作品も五姓田工房で制作されたと考えてよいであろう。シカゴ万博出品の古器物絵代金請求書には本下絵分も含まれているものと考えられる。下絵と題されているとおり、画面には本画(《日本考古学水彩画》)を制作するための指示が書き込まれている。全体的に丁寧に描かれ、彩色も繊細に施されている。本資料の歴史学的意義次に、本作が描かれた明治25年(1892)当時の日本の石器時代の史的位置付けに着目しながら、本作品の歴史学的意義について考察する。先に、帝国大学と帝国博物館の双方で出品物に重複がないよう照会が行われていたことにふれたが、明治25年(1892)当時、石器時代の研究を最も活発におこなっていたのは、坪井正五郎教授の率いる帝国大学理科大学の人類学教室であった(注5)。明治25年(1892)5月の書類で帝国大学側の標本調達者として記されている若林勝邦は、坪井の人類学教室員である。坪井は、明治22年(1889)6月から明治25年(1892)10月まで人類学研究のためにフランスとイギリスに留学しており、シカゴ万博の準備中は国内に不在であったが、帝国大学側の出品表の構成には、坪井の指示が反映されているとみるのが妥当であろう。坪井はその生涯を通じて、石器時代人はアイヌの伝説上の小人コロボックルであるという説を唱え、アイヌであるとする他の多くの学者と論争を展開した。日本の石器時代人は異人種であるという認識にもとづく坪井の人類学の隆盛により、E.S.モースによって開始された近代日本の考古学は停滞したともいわれている。一方、帝国博物館側は、シカゴ万博の歴史に関する出品の監修を、東京高等師範学校歴史科教授の三宅米吉に依嘱している。三宅は、教科書の研究のためにアメリカや
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