― 351 ―― 351 ―イギリスに留学し、科学的な歴史観を持っていた。明治20年(1887)に留学中のロンドンで記した『小学歴史編纂法』(金港堂、1887年)では、「世界万国いづれはあれど神代記のなき国はなし 然れども其国の歴史中に其国の神代記を載せて児童に教ふるところは文明国と云うべき国にはなし」と、神代から始まる日本の歴史教科書に批判的な見解を示している。確かに、文部省『史略』(明治5年(1872))や池田保之助『小学日本史』(明治21年(1888))などのこれまでの日本史の教科書では、天照大御神などの神々の事績から始まり、天孫降臨の図や、神武天皇を補佐したという宇摩志麻遅命など、神話の場面や登場人物の想像図を効果的に用いて、神話を史実のように描いていた。これに対し、明治19年(1886)に三宅が執筆した日本史の教科書『日本史学提要』では、文献以外の科学的な材料に基づいた歴史を叙述する方法が推奨され、石器時代の出土遺物の挿図が用いられている。本書の引用書目には、日本書紀や古事記、神皇正統記に加えて、E.S.モースによる大森貝塚の発掘報告書『大森介墟編』(エドワルド・エス・モールス撰著;矢田部良吉口譯、東京大學法理文學部、1879年)や旧石器時代(Palaeolithic)と新石器時代(Neolithic)とを定義した、ジョン・ラボックの『先史時代』(John Lubbock, Pre-historic Times as Illustrated by Ancient Remains, and the Manners and Customs of Modern Savages, 1865)も含まれている。『日本史学提要』の、発掘報告書から転載した石器時代の考古遺物の写実的な石版画をみると、日本の歴史を実証的に教えたいという三宅の強い意欲が伝わってくる。三宅は本書の緒言で「太古有史以前の有様を穿鑿し、遺跡遺物の存するものを枚挙し」た理由について、「我國人の起源を説明」するためと書いている。このような、先史考古学の研究成果を反映した日本史の教科書は、明治24年(1891)の『高等小学歴史』を最後に第二次世界大戦後まで見られなくなる(注6)。明治25年(1892)には歴史学者・久米邦武が神道について科学的に著した論文がもとで公職を追われた筆禍事件も起きている。《日本考古学水彩画》が制作された時期は、国粋主義が台頭し、記紀神話に基づく皇国の歴史以外を科学的に語ることが許されなくなっていく時期と重なっていたのである。日本政府は国内的には歴史記述の統制をひきつつも、海外向けには、記紀の史料批判も行い、科学的な歴史観を持つ国家であることをアピールしていた。万博が開催されるごとに刊行された、開催国の言語で日本史を紹介する本のシカゴ万博版、History of the Empire of Japan, Compiled and Translated for the Imperial Japanese Commission of the Worldʼs Columbian Exposition, Chicago, U.S.A., 1893, は神代から始まるが、口頭伝承は往々にして驚異的で超自然的な記述がのこるものであると、記紀の記述の非科学的
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