鹿島美術研究 年報第37号別冊(2020)
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― 352 ―― 352 ―な面を肯定する一文が記されている。日本が科学的な視点を持った文明国であることを表明するこの一文は、これまでに刊行された万博用の日本史には見られないものであった(注7)。このようにみていくと、シカゴ万博に出品された神話から距離をおく《日本考古学水彩画》は、この万博用の英文日本史と、わずかではあるが、科学的な視点を共有していたと言うことができる。《日本考古学水彩画》は、この絵が描かれた明治25年(1892)の日本の歴史観や、古物図の伝統に即してみると、進歩的な視点によって描かれていた。モチーフや画家は、日本が文明国であることを世界に示すために、進歩的な歴史教育者の三宅米吉によって慎重に選ばれていた。国内において「神代」と呼ばれる時代を、文明国の先史考古学を用い、日本における「石器時代」と「金属器時代」として図示している点に、本作品の歴史学上の意義が認められる。美術史的意義次にこれらの水彩画の描画面に注目し、本作品の今日における美術史的な意義について考察する。《日本考古学水彩画》には下絵が存在することについては先に述べた。その《閣龍博覧会出陳上古遺物図下絵》に描かれている個々の考古遺物の図には、S.KやK.Yという複数の人物のサインが確認できる。本図の作者二世五姓田芳柳は、画家工房の二代目当主のため、この下絵は五姓田工房の複数の画家たちによって描かれたものと推測される。ではなぜ二世五姓田芳柳が作者に選ばれたのか。その謎を繙くため、五姓田派と皇室の繫がりに注目したい。博物館は明治15年(1882)の開館当時は農商務省の管轄であったが、明治19年(1886)には宮内省に移管される。以降、昭和22年(1947)に国立博物館として文部省に変わるまで、博物館は皇室を管理する宮内省の管轄であった。実は五姓田工房は、初代芳柳より皇室とのつながりがあった。初代五姓田芳柳は、江戸時代の文政10年(1827)に紀州藩江戸藩邸の下級武士の子として生まれ、一説には10代の中頃、浮世絵師の歌川国芳に入門したと伝わる。横浜に移り住み、明治の初めには、陰影をつけ現実感を強調した西洋絵画を模した絵画を描き人気を博した。明治6年(1873)には横浜に行幸した天皇の姿を日本の伝統的な画材の絹本着色で西洋風に仕上げた絵が評判を呼び、明治7年(1874)頃には狩野派などの御用絵師ではない民間の画家でありながら、宮中から明治天皇の肖像画の制作を依頼されている(注8)。五姓田工房と皇室の関係はここからはじまっている。《考古学水彩画》の発注もとの帝国博物館は宮内省の管轄であったため、皇室にゆかりがある五姓田工房に制作を依頼したのでは

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