― 353 ―― 353 ―ないだろうか。この仕事は初代が引いたレールの上に成り立っていたのである。二世五姓田芳柳は、幕末の元治元年(1864)に現在の茨城県坂東市に大工の子、倉持子之吉として生まれた。明治11年(1878)、14歳で初代芳柳の息子・五姓田義松の画塾に入門する。そして、明治13年(1880)に、初代芳柳の末娘のとめと結婚し、明治20年(1887)に芳柳号を継承する。五姓田工房の画家は、従来からの墨を用い画面を立てずに床に寝かせて描く日本式の絵画と、鉛筆によるデッサンをもとに写実的に描く西洋式の絵画の両方の技術を使いこなした。二世芳柳は日本画の技法を初代から、写実的な描画方法や遠近法、水彩画、油彩画などの西洋画の技法を五姓田義松から学び、工部美術学校のアントニオ・フォンタネージの影響を受けている(注9)。《閣龍博覧会出陳上古遺物図下絵》の詩情豊かに描かれた古墳の水彩画〔図7〕からは、新しい西洋画の技法を身に着けた画家の自負心や気概までもが伝わってくる。この美しい下絵は、日本の古代を図解する《日本考古学水彩画》〔図4〕では詩情を廃して古墳や堀の形状など考古学的に重要な要素を抽出したものに置き換えられている。二世芳柳の描いた《日本考古学水彩画》の石器時代の土器と同じ土器を描いた東京人類学会雑誌の挿図を比較してみると、二世芳柳の鉛筆で輪郭をとり、陰影を施した水彩画の表現の新しさは際立ってみえる。坪井が率いた東京人類学会雑誌の挿図も含め、江戸時代から明治時代の中頃まで、「古器物図」や「考古図譜」といわれる考古遺物の模写図は、毛筆による墨書きが主流であった。西洋画の技法に巧みな職人を備えていることも五姓田工房への発注理由の一つであろう。次に、《日本考古学水彩画》と《閣龍博覧会出陳上古遺物図下絵》を比較してみる。下絵で写実的に描かれた考古遺物の実際の破損個所は、本画の《日本考古学水彩画》ではまるで補修されたように書き直されている。例えば、《日本考古学水彩画》の石器時代の土器が描かれたNo.2〔図2〕の画面右下に描かれている縄文土器の深鉢は傷のない完形品に見えるが、《閣龍博覧会出陳上古遺物図下絵》の同じ土器は口縁部から縦に大きな亀裂が走り破損状態が描かれている〔図8〕。そしてその右下には「ワレメトル」と縦書きの指示が書かれている。同様に、《日本考古学水彩画》の古墳時代の鉄製武具が描かれたNo. 13〔図5〕の、画面右上に描かれた眉庇付兜は、眉庇部分が兜本体と付いて1固体として描かれているが、《閣龍博覧会出陳上古遺物図下絵》の同モチーフでは、眉庇部分が外れ兜の前に置かれた状態で描かれている〔図9〕。そのそばには縦書きで「ヒサシツケル」という指示が書き込まれている。これらの指示書きは、三宅によるものと推測される。万博に出品された《日本考古学水彩
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