鹿島美術研究 年報第37号別冊(2020)
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― 354 ―― 354 ―画》は、考古遺物の出土状況や現状ではなく、遺物の使用方法をイメージしやすいように図解していたのである。二世五姓田芳柳は明治43年(1910)日英博覧会で日本古代から現代にいたる風俗のジオラマを制作し、名誉褒章を受けている。大正2年(1913)には帝室博物館に古墳を描いた大型の油絵を納めている(注10)。大正6年(1917)には明治神宮聖徳記念絵画館の壁画下絵八十題の制作に従事している。三宅米吉は後に博物館の歴史部部長となり、大正11年(1922)には館長に就任している。二世五姓田芳柳と三宅米吉、そして博物館と皇室の関係は、シカゴ万博以後も続いていたのである。二世五姓田芳柳の晩年の仕事に弟子の國府田範造が描いた『工芸百科大図鑑』(昭和11年(1936)~13年(1938))の校閲があるが、石造物や石器・土器、古鏡を客観的に並べて描いたさまは、《日本考古学水彩画》を彷彿とさせる。皇室とのつながりを持ち続け、歴史の絵画化(事物化)を生涯続けた二世五姓田芳柳の画家としての原点に、このシカゴ万博の《日本考古学水彩画》の仕事が位置づけられるのである。まとめ本論で考察対象とした《日本考古学水彩画》は、明治の中頃という早い時期に作られた、縄文時代から古墳時代にかけての体系的な日本考古遺物の標本という点で、考古学史上の価値が認められる。加えて、第二次世界大戦前に、日本の石器時代の存在を日本史で表記することが許された最後期のものとしての歴史的な価値も認められる。明治期に、日本政府が本作品をもって、科学的な歴史観を持ち合わせていることを世界に示していたとすれば、本作品には国際的な価値も認められる。美術史上の発見としては、この絵の作者が、二世五姓田芳柳であることは今回の調査によってはじめて明らかになった。この仕事を、この作家の原点に置くことができることも確認し、今後の二世五姓田芳柳研究、博物館と画家の関係に関する研究に道を開くこともできた。これらの新たな発見により、本作品は、日本考古学史、日本史、日本美術史、それから博物館学上、重要な作品ということができるだろう。本作品に描かれた縄文土器に着目することで、考古資料と美術品の境界に加えて、日本の歴史観の変遷をも考察する機会を得た。縄文土器は多面的な研究の可能性を秘めている。本研究を足掛かりに、美術としての縄文土器研究を深めていきたい。付記:本論は、ペンシルバニア大学で開催されたシンポジウムPhiladelphia and Meiji Japanでの講演Japanese Archaeological Paintings at the 1893 World Columbian Exposition:

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