鹿島美術研究 年報第37号別冊(2020)
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― 361 ―― 361 ―絵盤における獅子と本作例は、出っ張ったような上まぶたの形もよく似ていることに気づく。なおこの漆金薄絵盤を特徴づける華麗な宝相華は、遣唐使が伝えた最新の絵画技法を採用して描かれたものであるとされ(注10)、これに類似するモチーフは本装飾画の宝相華にも用いられているのであった。以上のように、騎獅菩薩も8世紀後半の様式を伝えるものであるといえよう。2.騎獅文殊との関係獅子に乗る菩薩としては文殊菩薩が想起されるが、秋山氏や河原由雄氏(注11)は本作例について文殊とは定め難いとして、装飾的、意匠的なものと評した。その類例として挙げられているのが、中国・西安碑林博物館に所蔵される興福寺断碑や大智禅師碑の碑側に表された、宝相華文様を背景に獅子の背上で奏楽する胡人の姿や、東大寺に伝わる誕生釈迦仏の灌仏盤に刻まれた、仙境を表現する種々のモチーフ中に見る獅子に乗る童子の姿である。他方、奈良時代以前にさかのぼる文殊菩薩の作例のなかで騎獅像としてつくられたものはなく(注12)、例えば法隆寺金堂小壁に描かれた文殊菩薩は、対応する普賢菩薩が象に乗るのに対して、宣字形の須弥座に坐している。日本における騎獅文殊の最も早い例は、五台山を巡礼した円仁が帰国後の貞観3年(861)に発願した比叡山文殊楼院の例(注13)を待たなければならないのである。騎獅文殊の成り立ちについて考察した小島彩氏によれば、騎獅文殊は、先に成立していた騎象普賢と対をなすものとして、文殊菩薩の聖地、五台山への信仰の高まりを契機に7世紀後半頃から中国を中心に普及していったという(注14)。『歴代名画記』には、唐・永徽3年(652)に建立された長安の慈恩寺の塔内部に、高宗の時名声を得た画家、尹琳の手になる騎象普賢と騎獅文殊があったとの記事がみえており(注15)、敦煌莫高窟においては初唐以降、騎象普賢と組み合わされて騎獅文殊が盛んに描かれるようになるのである。なお文殊菩薩が獅子に乗ることを説く経典としては、永徽4~5年(653~654)に阿地瞿多が訳した『陀羅尼集経』が最も古いとされるが(注16)、その訳出は、騎獅文殊の作例の出現とほぼ時を同じくしていることになる。ここで本作例と莫高窟壁画にみられる騎獅文殊の作例とを比較してみよう。騎獅文殊が成立していく過程では、側面観で表されていた文殊がやがて正面観となり荘厳の度合いが進むとされる(注17)。本作例においては獅子の体軀は斜めに角度をつけて描かれているようであり、斜め前から捉えた姿であることがうかがわれるが、この構図は唐・大暦11年(776)銘をもつ莫高窟第148窟南壁に表された騎獅文殊〔図3〕に

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