― 362 ―― 362 ―近いように見受けられる。これは、莫高窟第340窟西壁の初唐の騎獅文殊における、獅子が体側を見せる構図との比較によっても明らかであろう〔図4〕。一見すると本作例が、発展を遂げた騎獅文殊の例と構図において共通性を有するようにも思われるのである。ただし、尊像としての荘厳という点では、本作例でも獅子の足下には蓮華座が表されているものの、莫高窟の上記作例に見られるような天蓋や、菩薩自身が坐す蓮華座といった表現は認められず、簡素である。周囲に従う菩薩、あるいは馭者や礼拝者なども描き込まれない。また、壁面いっぱいに表され、観者の目の前に迫る存在感をもつ莫高窟の例に対して、本作例が下から見上げる位置にあり、幅わずか12センチメートルの画面に描かれたものであることにも注意を要する。ところで騎獅、騎象像の図様は、文殊と普賢として確立するより前から行われており、唐・貞観16年(642)の銘をもつ莫高窟第220窟北壁の薬師浄土変上部の左右に表された、天衣をなびかせて飛来してくる騎獅菩薩と騎象菩薩の姿などは、騎獅文殊、騎象普賢の一対の形が形成されていくうえでの過渡的な例として挙げられている(注18)。本作例に翻ると、装飾画のこの箇所にのみ具体的な尊名をもつ菩薩が配されることはやはり考えにくく、また飛貫に表された像がいずれも虚空にいる姿をとっていることを考え合わせると、これらは上述の莫高窟第220窟の例に見るような、上方から主尊を供養讃嘆する存在と見なすのがまずは妥当であると考える。ただ本作例は明確に菩薩の姿を描いたものであり、胡人や童子が獅子に乗る図様とは異なる性質をもっていること、敦煌莫高窟壁画における騎獅文殊と構図の上で類似性が認められることに注意を喚起したい。なお奈良時代の日本には、すでに五台山信仰の知識はもたらされていたようである。『古清涼伝』は、唐・調露元年(679)から弘道元年(683)頃、慧祥によって撰述された五台山に関する現存最古の専著だが(注19)、日本においてこれが初めて書写されたのは天平12年(740)のことで、さらに同19年までに9度にわたり写されたという(注20)。また、養老元年(717)に入唐し在唐18年に及んだ玄昉が、唐・開元13年(725)に五台山に赴き白獅子に乗る文殊菩薩の化現に遭遇したこと、『五台山記』なる書を著したことが『七大寺巡礼私記』興福寺条に記されている(注21)。そして榮山寺八角堂を建立した藤原仲麻呂その人は、留学生として入唐した第六子、刷雄が鑑真一行とともに帰国しその通訳を務めたこともあって鑑真と深い関わりをもったが(注22)、鑑真はかつて2千余枚もの袈裟を五台山に送ったことがあったという(注23)。このように見てくると、唐の政治文化に強い関心をもっていた仲麻呂が、五台
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