― 363 ―― 363 ―山信仰に関する何らかの知識を有していたこともあり得るように思われる。だからといって本作例が文殊菩薩であるということにはならないが、当時最新ともいえる騎獅文殊の図様が日本にもたらされており、信仰としてはさほど浸透していなかったにせよ、その図様が用いられたという可能性はないだろうか。このとき、何をもって文殊と同定するか、という騎獅文殊成立の根本に関わる問題について慎重に検討する必要が生じてくるが、少なくとも、唐における五台山信仰の高まりとそれにともなう騎獅文殊の流布という様相が、日本の作例にも影響を及ぼしたという状況を想定してみたい。3.胸前で手を伏せる印相 南北の騎獅菩薩のうち現在唯一明確に見ることができる印相は、北側の像が右手を胸前で伏せる形であるが、これは比較的珍しいものであるように思われる。この印相から得られる情報はないだろうか。類する手勢として、まずは宝珠捧持の形や如来鉢印が想起されよう。後者は、この印相をもつ釈迦が鎌倉時代以降の南都において造像されたことが指摘されているもので(注24)、両掌を上下に向かい合わせ、多くの場合両手とも第1、第3指を捻じ、下方の手に鉢を載せる場合もある。しかしこれらは左右の手が向き合う位置にあり、持物に対して一方の手をかかげるイメージがある点で北側の騎獅菩薩の手勢とは異なっていると思われる。そこでこれに近い印相を探してみると、薬師寺所蔵の吉祥天像を挙げることができる。宝亀3年(772)の吉祥悔過の創始に際しその本尊として制作されたとみられているこの吉祥天像は(注25)、左手に宝珠を載せ、右手は胸前で伏す姿として表される。谷口耕生氏は、薬師寺本の像高や容貌が『陀羅尼集経』の所説に符合することを指摘したうえで、右手の印相も同経に説かれる施無畏印が変形したものであるとする。悔過にて懸用される薬師寺本と、装飾画の一部である本作例とでは性格を異にすることもあり、北側騎獅菩薩の右手を同じく施無畏印であると決めることはできないが、悔過の本尊という確たる位置づけを有する薬師寺本と類似する印相が用いられている点には注目される。より近い印相が認められるのが、本装飾画の比較作例としてしばしば取り上げられてきた東大寺二月堂本尊光背の線刻画である。二月堂本尊光背は大仏蓮弁線刻画に遅れる天平宝字頃の作とみられ(注26)、そこに刻まれた図様は千手観音が引き起こす神変を主題としているという(注27)。多様なモチーフが表裏に刻まれているなかで、
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