鹿島美術研究 年報第37号別冊(2020)
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― 364 ―― 364 ―北側騎獅菩薩によく似た印相は表面上部外区の仏菩薩図中に見つけることができる。欠損もあるが左右対称の構図であったとすると、この区画には3軀の如来と40軀の菩薩が配されていたと考えられ、そのうち向かって左下に刻まれた菩薩が、右手を胸前で伏せ、左手は屈臂して肩の前で蓮華を執っているのである〔図5〕。これは左手の形についても北側騎獅菩薩と近いといえよう。同区頂部の如来の右方に位置する菩薩もまた、左手先が失われているものの同様の印相をとる〔図6〕。欠失する光背右半の同位置にも、対照的な姿の菩薩が表されていた可能性が大きいだろう。このように東大寺に伝わる作例と図様を共有していると見なし得るならば、それは本八角堂の造営に造東大寺司が関わったとする見方を補強するものと思われる。敦煌莫高窟壁画でも、第444窟南壁の説法図における右脇侍〔図7〕や第217窟北壁の西方浄土変中の菩薩など、盛唐期とされる作例を中心に、片手を胸前で伏せる手勢を確認することができた。この印相の淵源が大陸にあることが推測されよう。二月堂本尊光背上部の仏菩薩図が意味するところについてはいくつかの説があり(注28)、いずれせよ各菩薩の名称は特定できるものではないが、件の印相が認められる区画においてはほぼすべての菩薩は合掌しており、他の手勢はこれ以外にわずかに2~3種ほどが確認されるにすぎないことに注意したい。すなわち、頂部の如来の右方で手を伏せる菩薩の右横、および右後ろの菩薩は、少しずつ異なる形で甲を見せるように右手を胸前で構えている(注29)。そしてここで注目すべきは前者について、左手を屈臂して、親指の側面を見せる角度でもって垂下させている点である。これは奈良国立博物館蔵『諸観音図像』に載せる、大安寺東塔の柱に描かれていたという聖観音像の右手と同じ形であろう〔図8〕。この特徴的な印相は、奈良国立博物館蔵十一面観音像など南都ゆかりの作例に継承されていくことから(注30)、後の時代まで重きをなした様子がうかがわれる。このことにも鑑みるに、同じく二月堂本尊光背の同区画において、大多数の菩薩が合掌するのとは区別されていることが見てとれる胸前で手を伏せる印相も、当時用いられた図様のひとつとして一定の位置を有するものであったのではないだろうか。ところで、奈良・法華寺近隣の極楽寺に伝来し、現在奈良国立博物館が所蔵する阿弥陀浄土図は12世紀における作例とみられるが、その画面中に、指を捻じるなどの多少のバリエーションはあるものの、同様に手を伏せる菩薩を複数見いだし得た〔図9〕。この作品は、肉身や衣に賦された隈取りの表現などから、古様でありまた南都の画風を伝えると評されており(注31)、例えば先学が指摘しているように、丹地の衣の衣文に沿って朱を太く入れる手法は、平安時代後期に東大寺において制作された

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