― 373 ―― 373 ―を合わせたような図様で、板葺屋根で描く点は、「源氏物語 若紫・浮舟図屏風」(インディアナ大学美術館、17世紀狩野派)の影響と指摘されている。従って、養信が土佐派初期~土佐光起、傍系の狩野派の源氏絵屏風を研究した成果であるとされている。また、養信は古画の図様を転用していることが明らかとなっている。法然寺本は、二条院での賀宴の場面に、和泉市久保惣記念美術館蔵「駒競行幸絵巻」の樹木、三人の随身が転用され、舞台を設置し、公卿が高欄に裾を掛け並び座る様も近似することが指摘されている。東京国立博物館には、養信による「駒競行幸絵巻」の模写も所蔵されている。法然寺本の源氏四十賀の場面では、朱に金の四菱紋様の几帳、後ろ姿の女房が、「春日権現験記絵巻」に近似することが指摘されており、養信の「古図抄出」(東京藝術大学美術館)には、「春日権現験記絵巻」からの抄出が確認されている。このように、養信筆源氏物語図屏風については、古画や、狩野派・土佐派の源氏絵を学習して形成されたことが指摘されてきた。一方で、個人本の藤壺の前での絵合場面は、女性の姿態や配置が狩野雅信筆「源氏物語図屏風」(下関市立美術館)と類似しているため、後世の狩野派源氏絵の規範となった可能性が指摘されている。なお、養信の特徴が、父栄信から継承している可能性も指摘されている。遠山本は、『公用日記』の記述から、文化年間の御入輿御用時の栄信の先例にならって作画されたことが明らかとなっており、先例が特定されていないながらもヒントとして挙げられるのが、大正9年(1920)2月の『大阪市東家・某家売立目録』に掲載される113「伊川院 極着色雲金大内裏絵両面中屏風」(以降、大正9年売立掲載図)〔図2〕である。大正9年売立掲載図と遠山本は、寝殿と隣の対屋を渡廊でつなげ、調度品の綿密な描写が共通するという。養信は調度品や渡廊のある建築物など古式であるのが特徴だが、大正9年売立掲載図から、栄信にも見られるものであるとわかり、養信作品に特徴的な要素は既に栄信に準備されていたという安村氏の示唆(注5)を裏付けるものであった。では、栄信の建造物や画面構成等のアイディアはどこから得たものなのか。木下氏は、類縁性が見受けられるものとして、狩野柳雪筆「源氏物語 桐壺・空蝉・初音図屏風」を挙げ、この作品の初音場面を左右反転すると、大正9年売立掲載図の初音場面に近似する構図になるとされた(注6)。このように、養信へ至る流れを遡ることが出来るが、婚礼調度の屏風制作には、先例に部分的に変更を加え絵様が決定されることが多い(注7)のであり、養信や邦信ら近世後期の狩野派作品にも、各絵師の「個の表現」というものが存在するのではな
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