― 383 ―― 383 ―《ダヴィデ》対作品計画に関連するミケランジェロの作品群に見る多視点性1508年にさかのぼる《ダヴィデ》対作品計画は、共和制が倒れメディチ家がフィレンツェに復権してから本格化した。ミケランジェロをメディチ家礼拝堂やラウレンツィアーナ図書館の仕事に集中させたい教皇クレメンス7世は1524年、受注を希望するミケランジェロではなくバッチョ・バンディネッリに制作を命じたが(注10)、この際フィレンツェの民衆はミケランジェロが「ヘラクレスとアンタイオス」の彫像を制作することを望んだという(注11)。アシュモリアン美術館と大英博物館に所蔵されている《ヘラクレスとアンタイオス》の素描は、このときミケランジェロが準備素描として描いたものであると考えられている(注12)。さらに前述のように、《ヘラクレスとカクス》のモデルもこの計画のために制作されたと見てよい。一方でヴァザーリが述べるところによれば、ミケランジェロは1527年にメディチ家が追放された際に当該作品の制作を担当することになった。そして大理石の状況を検分した上で主題を「ヘラクレスとカクス」から「サムソンとペリシテ人」に変更し(注13)、1528年8月22日付けでシニョリーアと作品制作契約を締結している(注14)。しかしフィレンツェ攻囲戦に勝利したクレメンス7世により大理石はバンディネッリの手に戻され、1534年に彼の《ヘラクレスとカクス》が設置されることによって《ダヴィデ》の対作品計画は終結した〔図5〕。上記のミケランジェロ作品に共通するのは、以下に述べるように、設置された彫像が複数の視点から鑑賞されることを前提とした造形、すなわち多視点性を有しているという点である。さらに、ヴァザーリらの証言を踏まえた上で多視点性の展開という視座から考察するならば、これらの作品が制作された順番を推定することができる。具体的に指摘するならば、まずアシュモリアン博物館の作例〔図3〕のうち、左側の群像ではヘラクレスとアンタイオスは胸を合わせ、双方の頭部も鑑賞者の方を向いている。この造形のまま彫像が制作されたとすると、この視点からは人物像がどのような表情なのか、どのような動作をしているのかが明確に把握でき、戦闘という主題も容易に理解できる。すなわち単一視点を持つ彫像であるということができ、描き直しの多さから見ても、構想の最初期に描かれたと考えられる。その右側の群像ではアンタイオスの上半身が大きく捻られ、彼の顔はヘラクレスと反対方向へと向けられている。人物像の顔は視点を構成する重要な要素であり、ここでミケランジェロはもう一つの視点を創出しようとしていると考えてよいだろう。そして大英博物館の素描〔図4〕ではアンタイオスの身体を逆向きにすることによって双方の顔が向いている方向、そしてアンタイオスとヘラクレスの身体が向けられてい
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