― 28 ―― 28 ―像も同様だが、この共通点については、奈良仏教のもとで学んだ最澄が、奈良仏教の尊像構成を継承していたためと考えることも可能かもしれない。4.文献から見た造像期の伊豆半島本節では、現在の南禅寺諸像が造像された時代の伊豆の状況を古記録から見る。すると9世紀半ば以降の伊豆に関する記述が、伊豆諸島の活発な火山活動と、伊豆及び伊豆諸島の神々に対する神階叙位の記録に満ちていることに気が付く。『釈日本紀』が引く『日本後紀』逸文によると、天長九年(832)5月23日、伊豆国が、伊豆国の三嶋神と后の伊古奈比咩神が、谷を塞ぎ巌を砕き、平地を造って二神宮と三池を作った神異を報告している(原文・出典は〔表3〕参照。以下も同じ)。この文には「神造是島響也」の注記があるため、伊豆諸島における噴火の記録と考えられる。承和7年(840)9月23日には伊豆国より、一昨年の承和5年(838)7月5日夜、神津島(上津嶋)が噴火した情報が都にもたらされる。承和5年の7月18日には都で火山灰が降っており、20日には東方から太鼓を打つような音、7月から9月にかけては、河内・播磨など畿内近国を含む16国に火山灰が降るなどの怪現象が続いていた。この報告を受けた朝廷は一昨年の怪異を思い出し、驚いたのだろう。翌月の10月14日には神津島の阿波神と物忌奈乃神に従五位下の神階を贈与している。その後、火山活動の記述は途絶えるが、嘉祥3年(850)6月と10月、仁寿二年(852)、斉衡元年(854)、貞観六年(864)、貞観十年(868)と伊豆の神々への叙位が度々行われ、嘉祥3年11月には伊古奈比咩・阿波・物忌奈三神が官社に列されるなどしており、その背景に火山活動や地震の継続が考えられる(注13)。『日本紀略』及び『扶桑略記』によると、伊豆国は仁和三年(887)11月2日、噴火によって生まれた「新嶋図一張」を朝廷に献上、図には「神明放火、以潮所焼、則如銀岳」というさまが書かれていたといい、依然として伊豆諸島の噴火は続いていた。この後は、正史の編纂が途絶え、伊豆の情勢も不明となるが、10世紀も火山活動が継続していた可能性は十分あるだろう(注14)。2世紀ぶりに伊豆諸島の火山活動を記すのが、『中右記』である。『中右記』10月22日条は、このころ都では、東方からの太鼓を打つような鳴動に「衆人驚奇」していたと記すが、11月27日条には伊豆国からの報告で先月中下旬の伊豆における「海上火出来」を知り、「是去月天下鳴動声、大略此響歟、希有奇怪第一之事也」と驚愕している。
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