言い換えれば、広場のような広大な空間に設置された巨大な彫像は、広場の空間そのものを自らの拡張された活動領域として取り込んでいるのである。U. Müller-Hofstede, ʻRepräsentation undBildlichkeit auf der Piazza della Signoria. Aufstellung und Bedeutungsverdichtung von MichelangelosKoloss vor dem Palazzo Vecchioʼ, in: A. Nova, S. Hanke ed., Skulptur und Platz: Raumbesetzung-Raumüberwindung-Interaktion, Berlin, 2014, pp. 284-285. Larsson, op. cit., p. 86; Schmidt, op. cit., p. 100. Brinckmann, op. cit., p. 155; P. Joannides, ʻTwo Drawings Related to Michelangeloʼs ʻHercules andAntaeusʼʼ, in: Master Drawings, Vol. 41, No. 2 (Summer, 2003), p. 111; 新倉(2017)、上掲書、p. 48。 フィレンツェは伝統的にヘラクレスを都市の象徴として用いていた。フィレンツェ におけるヘラクレス・イメージの利用に関しては以下を参照。L. Ettlinger, ʻHercules Florentinusʼ, in:Mitteilungen des Kunsthistorischen Institutes in Florenz, Vol. 16, 1972, H. 2, pp. 119-142; M. Bull, Themirror of the Gods, Oxford/ New York, 2005 pp. 86ff.; P. Simons, ʻHercules in italian Renaissance art:musculine labour and homoerotic libidoʼ, in: Art History, Vol. 31, No. 5, 2008, pp. 632-664. したがって、もしミケランジェロによる《ヘラクレスとカクス》の巨像が市庁舎前に設置されていたら、フィレンツェ攻囲戦における共和国の権威と外敵撃退の意思の表明としてまさにうってつけの主題と造形であったといえる。 逆に、民衆が望む「ヘラクレスとアンタイオス」ではなく「ヘラクレスとカクス」をクレメンス7世が選択した理由は、暴君殺しを象徴するアンタイオスの主題を嫌ったからだと考えられる。Bull, op. cit., pp. 107-109. いずれにせよ、攻囲戦後にメディチ家が復権した際に設置され― 389 ―― 389 ―1520年代にミケランジェロが素描とともに制作したモデルだとしている。これを確認するすべはないが、本文で示すように、《ヘラクレスとアンタイオス》と《ヘラクレスとカクス》の前後関係の推定はあくまで造形分析によるものである。したがってその判断は素描とモデルという制作プロセスにおけるメディウムの違いに依拠しているわけではない。⒆《ダヴィデ》がそうであったように、フィレンツェ市庁舎の正面入口に設置される彫像はとりもなおさず共和国の政治的態度表明でもあり、パラッツォを訪れる者の視線は強く意識されていたはずである。《ダヴィデ》図像の政治的意味については、以下を参照。U. Fleckner, M.Warnke et al., Politische Ikonographie: Ein Handbuch, Vol. I, München, 2014, pp. 216-225. ミケランジェロの《ダヴィデ》に関しては、作品の反メディチ的解釈が過剰のきらいがあるが、以下の文献が参考になる。S. Levine, ʻThe Location of Michelangeloʼs David: The Meeting of January 25,1504ʼ, in: The Art Bulletin, Vol. 56, No. 1 (1974), pp. 31-49. またファースポールは、《ダヴィデ》をマキャヴェッリとミケランジェロとの関係という視座から考察している。F. Verspohl, Il Misterodel David: Significato politico secondo Michelangelo e Machiavelli, Firenze, 2015.⒇この3つのルートのうち、最後に挙げたアルノ河方面からパラッツォ・ヴェッキオへと向かう道筋のみ、ミケランジェロが一連の作品を構想していた1520年代当時と現在とでは異なった様相を呈している。なぜならパラッツォとアルノ河を結ぶ動線はミケランジェロがローマへと去って以降、16世紀後半にコジモ1世の命を受けたヴァザーリにより、大々的に変更されたからである。当時のシニョリーア広場からアルノ河へと抜ける道は、現在のように直線ではなく幅も狭かった。また何本かの路地が東西からこの道に接続していたと考えられている。J.Lessman, Studien zu einer Baumonographie der Uffizien Giorgio Vasaris in Florenz, Bonn, 1975, pp.35ff; G. Pappagallo, ed., La fabbrica degli Uffizi: indagini e ritrovamenti 2007-2009, Livorno, 2011, p.49; C. Conforti, F. Funis, La costruzione degli Uffizi: nascita di una galleria, Arriccia, 2016, pp. 35ff.
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