鹿島美術研究 年報第37号別冊(2020)
406/688

― 394 ―― 394 ―㊱ 出羽久保田藩佐竹家御絵師狩野秀水の研究研 究 者:馬の博物館 学芸員  柏 﨑   諒はじめに本稿では、出羽久保田藩佐竹家御絵師狩野秀水家資料(以下、本資料と称す)を扱う。本資料は、出羽久保田藩佐竹家御絵師(注1)であった狩野秀水求信の御子孫が保管されていた600点ほどの粉本からなる粉本群(注2)である。粉本とは、模写や下絵等の絵師が作画のために使用するもので、狩野派に限らずいずれの画派でも用いられた。筆者は以前、本資料を(1)折に触れ目に止まった作品を描き取った寓目作品の縮図、(2)職務上あるいは自身の学習のために制作した古画の模写、(3)画を制作する際に用いた自作下絵、(4)鳥獣や風景、風俗等の写生の4つと、これら4つを集大成した(5)絵手本帳に分類し、その概観を述べた(注3)。しかし、個々の粉本についての研究は途上である。そこで本稿では、本資料に含まれる粉本の制作者について述べる。その上で、本資料から読み取れる粉本の利用や制作、あるいは継承の状況と、再模写により制作された粉本について論じたい。なお、本稿で扱う資料のリストを後掲する〔表1〕。リストでは、資料に施された墨書や落款印章等は紙面の関係で一部割愛した。また、本稿で扱う資料は全て個人蔵である。1.出羽久保田藩佐竹家御絵師狩野秀水家の絵師について本資料は、狩野秀水家代々の絵師のほか、秀水求信の生家である菅原家の絵師等の周辺絵師ら複数の絵師による粉本からなる。ここでは、狩野秀水家の絵師と、その絵師の落款印章等について述べる。周辺絵師の粉本については、量がごく少数であり、本資料に周辺絵師の粉本が含まれる事情を考察することが難しいため、本稿では扱わない。なお、絵師の経歴等については、『狩野氏家系』(狩野秀元、弘化2年〔1845〕9月佐竹家提出、秋田県公文書館、A288.2-178)と、御子孫が過去帳などを元に作成された系図を参照した。狩野秀水求信菅原洞旭(注4)の次男として生まれる。寛政11年(1799)に秋田に下向。久保田藩9代藩主義和に御目見得。享和3年(1803)に浅草猿屋町代地狩野分家の洞琳波信の次男秀水尊信の名跡を継ぐものがなかったため、その名跡を継ぎ狩野姓を名乗ることを許される。文化2年(1805)に佐竹家の一代御絵師に召し立てられ、五合五人扶

元のページ  ../index.html#406

このブックを見る