鹿島美術研究 年報第37号別冊(2020)
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― 395 ―― 395 ―(1819)佐竹家へ出仕するが、文政7年に15歳で亡くなっている。持を頂戴、文化7年には一代近進絵師、文化12年には永代近進絵師になり、五合五人扶持給金十両を下し置かれる。一代近進絵師から永代近進絵師となったことで、狩野秀水家は御絵師を世襲することができるようになったと考えられる。そのため、狩野秀水家の初祖と言える。その後、天保7年(1836)には二人扶持を加増。翌天保8年に65歳で没している。特筆すべき画事として、文化12年7月の義和逝去の際、肖像制作を仰せつかったことが挙げられる。肖像画が絵師にとって最も重要な画事の一つであったことを考えると、秀水と義和との関係が深いものであったことが推察される。なお、狩野秀水家の2代後に同じく「秀水」の号を用いた秀水義信がいるため、本稿ではそれぞれ「秀水求信」、「秀水義信」と呼ぶこととする。「文宣王像」〔図1〕(E001-001)は「文化五戊辰十月十六日狩野秀水手摹」の墨書と朱文瓢印「狩埜秀元蔵」がある。文化5年(1808)には秀水義信は生まれていないため、「文宣王像」が秀水求信の制作とわかる。そのほか、「文化元年十月吉日摹 秀水蔵」の墨書と朱文方印「秀水画印」、朱文瓢印「狩埜秀元蔵」が施される「婦女図」〔図2〕(E001-013)も、文化元年には秀元貞信、秀水義信ともに生まれていないことから、秀水求信の作であろう。「舟上人物図」〔図3〕(E002-010)にも「文化元年十月吉日 秀水摹」の墨書と、朱文方印「秀水画印」がある。以上のことから、「婦女図」と「舟上人物図」に捺される朱文方印「秀水画印」は秀水求信の使用印と推測できる。なお、朱文瓢印「狩埜秀元蔵」については後述する。狩野秀玉秀水の実兄である菅原洞斎(注5)の四男。秀水求信の養子となる。文政2年秀玉は夭折してはいるものの、本資料には秀玉の粉本が11点含まれる。「柿本人麻呂像」〔図4〕(E005-006)に見るように、朱文八稜印「秀玉蔵」や「秀玉冩」の墨書を施す。狩野秀元貞信秀水求信の実子で、秀玉の早世により秀水求信の跡目を継いだ。秀元貞信は先述の『狩野氏家系』を佐竹家へ提出している。文政13年から佐竹家に出仕し、元治元年(1864)に42歳で没している。秀元が制作したと思われる粉本には「秀元冩之」や「秀元貞信筆」等の墨書が見られる。また、「武者絵」〔図5〕(E004-005)には「天保九戊戌年四月二日秀元冩之」

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