― 396 ―― 396 ―の墨書とともに、白文方印「狩野氏」が捺されるため、この印は秀元貞信の使用印と考えられる。本資料には、墨書等がなく、白文方印「狩野氏」のみが捺された粉本が含まれるが、これらも秀元貞信の制作であろう。そのほか、先述の「文宣王像」や「婦女図」等のように、朱文瓢印「狩埜秀元蔵」が捺される粉本が散見されるが、これらの粉本については後述する。狩野秀水義信秀水義信は秀元貞信の娘婿で幼名を金次郎という。秀元貞信の跡目を継いだと思われる。しかし、『狩野氏家系』は秀元貞信までの記述なので、秀水義信が跡目を継いだという確証は今のところない。秀水義信は維新後の明治9年(1876)に没しており、狩野秀水家最後の御絵師と考えられる。秀水義信の生年は過去帳等に記載がないが、「波に桃鶴図」〔図6〕(E006-004)の「拾七才 元治元年三月十二日金次良写之」の墨書から、嘉永元年(1848)生まれと判明する。本資料中で、秀水義信の制作と判明するものは、「波に桃鶴図」のように「金次郎」あるいは「金次良」等とあるものがある。そのほか、「秀水冩之」等、年紀もなく「秀水」としか記されず、秀水求信と秀水義信のいずれかの制作か判明しない粉本も多い。2.それぞれの粉本の制作及び利用本資料中のいくつかの粉本からは、施された墨書や印から、継承や制作、利用の状況について推察出来る。ここでは、それらの粉本を紹介する。まず取り上げるのは、本資料中に多数ある朱文瓢印「狩埜秀元蔵」を捺す粉本である。「文宣王像」〔図1〕(E001-001)、「婦女図」〔図2〕(E001-013)は、先述の通り秀水求信の制作であるが、朱文瓢印「狩埜秀元蔵」(朱文瓢印)を捺す。「白衣観音図」〔図7〕(E002-012)は朱文瓢印「狩埜秀元蔵」を捺すものの、「文化己巳年春三月十一日摹山崎公御携」の墨書がある。墨書から文化6年(1809)の制作と判明するが、秀元貞信は文政6年(1823)生まれのため、この粉本を制作したのは秀元貞信ではなく秀水求信と考えられる。以上で挙げた、秀水求信の制作でありながら朱文瓢印「狩埜秀元蔵」を捺す粉本は、秀元貞信が父である秀水求信から引き継いだ粉本に自らの所蔵印を捺したものと考えられる。朱文瓢印「狩埜秀元蔵」が捺された秀水求信が制作した粉本からは、単に先代の粉本を捨てずにとっておくだけでなく、積極的に自らの所蔵とする意識が読
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