鹿島美術研究 年報第37号別冊(2020)
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― 397 ―― 397 ―み取れる。さらに、「傅説図下絵」〔図8〕(E003-010)と「傅説図写」〔図9〕(E002-002)からは、継承した粉本をただ所蔵するだけでなく、画事に利用していたことが読み取れる。「傅説図下絵」は「傅説図写」をもとに描かれている(注6)。「傅説図写」は朱文瓢印「狩埜秀元蔵」と、「傅説 牧谿筆」の墨書と原本に捺された印の写しが朱で施される。印や墨書から制作者は判然としないが、秀元貞信が所蔵していた粉本であるとわかる。「傅説図写」の制作者は秀水求信あるいは秀元貞信であろう。一方、「傅説図下絵」には「以古図 秀水よし信画」の墨書があることから制作者は秀水義信とわかる。このことから、「傅説図下絵」は秀水義信が秀元貞信から継承した「傅説図写」をもとにつくられた下絵であると判明する。実際の資料から粉本が継承後も実作品の制作に用いられていたことを読み取れる重要な資料と言える。本資料中には、秀玉、秀元貞信、秀水義信が10代の頃に描いたことが判明する粉本がある。なお、秀水求信は狩野秀水尊信の名跡を継いだ際に31歳だったためか、10代の頃に作成したと断定出来る粉本はない。秀玉は15歳で没しているため、本資料に含まれる全11点(E005-001~011)が15歳までに制作されたことになる。秀元貞信のものは、「松若丸像」(E004-003)、「清少納言図」(E004-004)、「武者絵」(E004-005)、「張果老」(E004-008)、「加藤清正兜図」(E004-009)、「遊女読書図」(E004-015)、「鶯図」(E004-016)、「孔雀牡丹図」(E004-017)、「鯉図」(E012-001)等、秀水義信のものが「敦盛」(E006-003)、「波に桃鶴図」(E006-004)、「鍾馗図」(E006-011)、「百燕図」(E006-013)等である。それぞれの年紀を見ると、秀玉の粉本が文政5年(1822)と6年、秀元貞信が天保8年(1837)から天保11年、秀水義信が元治元年(1864)と慶応元年(1865)である。それぞれ年齢が、12~13歳、15~17歳、17~18歳のときにあたる。幕末、木挽町狩野家の弟子であった橋本雅邦は、明治時代になってから木挽町狩野家の画塾でどのような教育が行われていたのかを記述している(注7)。橋本雅邦によれば、大抵は14~15歳で弟子入りしたという。そして、修業年限は10年以上で、30歳に達して終わるのが常だという。また、修業中に学習のために描いた模写は、そのまま絵師が所有して粉本として利用されたという。本資料に含まれる絵師が10代の頃に描いた粉本は、修業時代の画学習によって制作されたものであろう。若年期の模写も、粉本としてその家系に蓄積されていたことがわかる(注8)。3.再模写により制作された粉本本資料中には、模本を再模写したもの、模本の模写をさらに模写した再々模写と

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