― 29 ―― 29 ―9世紀後半に活発化した伊豆諸島の火山活動は中央貴族の耳目を驚かし、朝廷は神威をなだめるべく、神々に幾度にもわたって神階を捧げていた。南禅寺諸像の中央作と思われる古い像はこの時期に造像されており、荒ぶる神に対する朝廷の対応の一環として造像された可能性が高いと思われる。南禅寺の前には、かつて宝誌像があった天嶺山が聳えるが、その向こうは目前に伊豆大島が浮かび、背後には伊豆諸島が遠望される海である。この地理的条件のゆえ、ここに南禅寺が創建され、仏像群が安置されたのではないか。南禅寺は伊豆の神々に対する神宮寺的な寺院であったと考えたい。南禅寺では12世紀、多くの神像が造像されている。これは『中右記』に「海中神火」として記録された天永三年(1112)の噴火を受け、9世紀の先例にならって行われたものと考えられ、神像群は三嶋神の眷属や御子神たちの像ではなかろうか。このことを傍証すると思われるのは、鎌倉後期に成立した『曽我物語・真名本』の記述である。敵討ちを控えた曽我十郎が三嶋大社に大願成就を祈る起請文の中に、「我是伊豆国鎮守三嶋大神、是本地薬師后妃十一面観音王子亦地蔵尊是今伊豆国賀茂郡河津里立」から始まる一文がある。これは三嶋神の神威を神の託宣を引用して語る部分の冒頭で、続いて三嶋神の多くの眷属や御子神の本地が列挙される。河津里に三嶋神と后妃、王子が示現したと語っているが、ここに挙げられる三嶋神と后妃、王子の本地が、南禅寺の主要な像と一致する点は興味深い。南禅寺には同時期の十一面観音が3体あるが、これらの像が神々の本地仏であるとすれば、同一尊格の同時期の像が同所に複数存在することも理解しやすい。南禅寺の仏像の中には洞があり、節がある材を用材に用いるものが散見され、かつて南禅寺に伝来した善光庵十一面観音像の頭上面には目鼻が刻まれていないが、これらは神仏習合的な造形とされる。これらも南禅寺像の本地仏的な性格を示す要素と思われる。まとめ本研究では南禅寺諸像を、9世紀後半の伊豆諸島の噴火に際し、中央政府の対応として造像されたものと考え、また、その担い手は奈良仏教勢力と考えた。南禅寺からは奈良時代の塑像の螺髪が出土しており(注15)、現存する諸像以前に、奈良仏教の寺院があったことが分かっている。その法灯が平安時代も継続し、南禅寺諸像を造像したと考えるのは自然であろう。それでは奈良仏教のどの勢力であったかということだが、注目したいのは、天平19年(747)『大安寺縁起幷流記資財帳』の「論定出挙本稲参拾万束」設置国に伊豆国が含まれていることである。大安寺の経済基盤があった
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