鹿島美術研究 年報第37号別冊(2020)
410/688

― 398 ―― 398 ―いった、いわゆる又写し、又々写しの粉本が多く含まれている。先人の模写を又写しすることで画学習を行うことは一般的であった。以前筆者は、実際の資料を通して再模写による画学習が行われていたことを確認できることの重要性と再模写による粉本制作の意義を述べた(注9)。本稿では、再模写、再々模写の状況について考察する。本資料の内、墨書から明確に再模写とわかる粉本には「中国古画模本」(巻子001-001)、「花蝶図」(巻子001-002)、「海老と鯉」(巻子001-006)、「楽戸争撃図」(巻子001-007)、「兎」(巻子001-015)(以上5点は、「狩野秀水写画帖」(巻子001)の内)、「水禽図」(E003-004)、「老子図」(E003-005)、「鶴図」(E006-010)、「寿老人」(E007-003)等がある。これらの再模写の粉本見ると、木挽町狩野家の当主、あるいは木挽町狩野家の晴川院養信の弟で浜町狩野家の跡目を継いだ董川中信が作成した中国絵画の模本を模写したものが大半を占める。ほかの奥絵師の家系の当主の模本をもとにした粉本は本資料中には見出せない。このことが、狩野秀水家の絵師が木挽町狩野家の画塾で学んだというような個別の事情によるのか、木挽町狩野家の粉本が狩野派絵師の中でよく模写されていたというような狩野派全体の事情なのかはわからない。ただし伊川院栄信と晴川院養信の父子は、中国絵画の模写事業に注力したことで知られる(注10)。狩野秀水家では栄信・養信父子による中国絵画の模写事業の恩恵を受け、間接的に中国絵画の模写を行う事が出来た状況が本資料からは読み取れる。木挽町狩野家の中国絵画の模写事業と狩野秀水家資料との関係をどのように捉えるかは今後検討が必要であるが、狩野派の組織の中では藩に仕える御絵師の家系にまで中国絵画の模写事業の影響が及んでいたことは言及出来よう。おわりに本稿では、粉本の継承の様子や修業時代の粉本、あるいは再模写による画学習の状況について論じた。出羽国久保田藩佐竹家御絵師狩野秀水家資料は、粉本の利用状況を1つの家系に伝わったひとまとまりの粉本群を通して確認できる点で、非常に貴重な資料である。粉本の継承や再模写による画学習は、古来の名画を直接見ることが出来ない絵師達にも古画の学習を行うことを可能にしている。粉本による学習は多くの絵師を育成することを可能にしていたと言えよう。粉本の有効活用は、狩野派が江戸時代に隆盛した一因と言える。本資料は、質・量ともに充実している。そのため、今後の研究課題も多い。今後の研究課題を記し、まとめに変えたい。現在の進捗状況は、本資料の調査と整理を終え、個々の粉本についての考察を始めた段階である。今後は、個々の粉本と関わりのある

元のページ  ../index.html#410

このブックを見る