鹿島美術研究 年報第37号別冊(2020)
411/688

注⑴ 狩野秀水家の絵師が使えた出羽久保田藩とは、秋田藩とも呼ばれ、室町時代以来常陸国の守護であった名門佐竹氏が関ヶ原の合戦後に出羽国秋田に移封されたことによって始まる。「御絵師」とは、徳川政権成立後に幕府をはじめとする諸藩の支配体系に組込まれた絵師の職制上の呼び方である。現在、「御抱絵師」、「藩絵師」等と呼ばれる絵師は江戸時代には「御絵師」という名称であった。佐竹家に提出された『狩野氏家系』(狩野秀元、弘化2年〔1845〕9月佐竹家提出、秋田県公文書館、A288.2-178)によれば、狩野秀水家は「江戸定居御絵師」とあるため、国許ではなく、江戸に住み江戸屋敷において画事を行う御絵師であったことがわかる。本稿では、狩野秀水家を当時の用語を用いて「御絵師」と呼ぶこととする。また、現在使われている、「御用絵師」、「御抱絵師」、「藩絵師」といった用語や、「御絵師」という呼称、あるいはその身分等については、武田庸二郎、江口恒明、鎌田純子共編『近世御用絵師の史的研究 幕藩制社会における絵師の身分と序列』(思文閣出版、2008)を参照。⑸ 菅原洞斎は『古画備考』の主要な情報提供者として知られている。詳しくは『原本『古画備考』― 399 ―― 399 ―⑵ 本資料は漆塗りの箱にひとまとめに収められていた。粉本のほか、版本、和歌を書き付けた短冊や奉書紙、あるいは書状の下書きと思われるものが20~30点ほど含まれている。所蔵者により、粉本にある落款印章や画題等によって整理されていた。本資料の整理に際しては、そのまとまりごとにアルファベットと数字の番号を付し、その中に含まれる資料にそれぞれ枝番を与えた。また、軸や巻子等にはそれぞれ「軸001」等と番号を付し、その中に独立した資料が複数表装されている場合には、それぞれ枝番を与えた。本稿で、本資料中の資料を紹介する際は、その番号を付す。⑶ 柏﨑諒「出羽久保田藩佐竹家御絵師狩野秀水家資料─狩野派藩絵師の粉本について─」(『美術⑷ 菅原洞旭は、『古画備考』に「菅原洞旭 享保元、新御靈屋御用之節門入、」とあり、浅草猿屋⑹ 「傅説図写」をもとに「傅説図下絵」が描かれたことについては、注⑶前掲の拙稿で取り上げ⑺ 橋本雅邦「木挽町画所」(『國華』4号、1889)。⑻ ただし、これらの10代の頃に模写された粉本から、狩野秀水家の絵師がどこで誰に画を学んだかは読み取れない。狩野秀水家だけでなく、他の狩野派絵師が父から画を学んだのか、奥絵師や表絵師の画塾で学んだのか、ということはこれまで論じられることは少なかった。本資料のみでは、狩野派絵師がどのような組織体系で画を学んだのか考察することは難しい。しかし、実作品の調査を必要に応じて行っていく必要がある。本資料には歌仙絵の模写や下絵が多く含まれている。秀水求信は佐竹本三十六歌仙絵巻の模本(宮内庁書陵部蔵)を制作しており、本資料に含まれる歌仙絵の粉本との関係について考察したい。また、本資料には各大名家が所蔵していた古画を模写したとわかる粉本が複数ある。諸国各藩に仕えた御絵師の粉本制作に各藩の大名同士の交流が与えた影響についても、本資料に関する研究から言及が可能であろう。史研究』57号、2019)。町代地狩野分家2代目の洞琳波信門人として名前が挙がっている。のネットワーク』(古画備考研究会編、思文閣出版、2013)参照。た。

元のページ  ../index.html#411

このブックを見る