Ⅰ 現存する壁画― 405 ―― 405 ―1.チカノと壁画チカノ(Chicano)という用語は、1960年代までは、メキシコ系に対する蔑称であったが、1960年代から隆盛したメキシコ系の権利向上「運動」(el movimiento)を通じて、その呼び名はメキシコ系の自己肯定を促す自称とアイデンティティにもなった(注3)。チカノたちは差別に対する抵抗と、自己肯定の手段として多くの壁画を制作した。それが「チカノ壁画」と理解されるコミュニティ壁画である。チカノたちは、美術のほかにも、音楽、演劇、文学などで独自の混淆文化を形成し、米国のなかで自らの存在価値を高めていった。「チカノ壁画」は今日も「運動」の拠点であった東部ロサンゼルスに数多く残されている。『ストリートギャラリー1000以上のロサンゼルスの壁画案内』(Dunitz 1998)によると、1998年の時点で東部ロサンゼルスには176点以上の壁画があった。東部ロサンゼルスのみならず、かつて「世界の壁画の中心地」であったロサンゼルスでは、壁画は、劣化、毀損、地区の再開発によって消されることも多く、壁画保存関係者の証言によると、現在は、かつて存在していた壁画の60%以上は目にすることができなくなったと言う。2.東部ロサンゼルスの「チカノ壁画」の調査本研究では、ダンイッツの調査(Dunitz 1998)をもとに、1998年に東部ロサンゼルスに存在した壁画176点の所在確認を行い、現存する壁画を記録した。東部ロサンゼルスは、メキシコ系が多く居住する地区で、チカノ文化の拠点ともいえる。東部ロサンゼルスの90の壁画を調査した先行研究では、壁画の分類を「商業宣伝」「宗教」「政治主張」「歴史・文化・教育」「抽象画」に分けているが(矢ヶ崎ほか2006)、本研究では、そのような区分は行わない。なぜなら実際には「商業宣伝」でありつつ「宗教」的であるなど、分類の内容が重複していることも多く、「チカノ壁画」では、このような便宜的分類が実際の壁画内容に当てはまらない場合があるからだ(注4)。そこで本稿は、歴史的変遷に依拠して「現存する壁画」と「失われた壁画」に区分し、記録できた現存する壁画のうち、物語性の高い三点の壁画を抜粋し、それらの読み取りを行う。加えて1998年以降に制作された壁画を「新たな壁画」とし、三点の壁画に続いて読解を行う。一点目の現存する壁画は、1975年に制作された《名もなき人の短き人生》である
元のページ ../index.html#417