鹿島美術研究 年報第37号別冊(2020)
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― 415 ―― 415 ―㊳ 鈴木其一の光琳回帰と流派意識について研 究 者:名古屋大学大学院 人文学研究科 博士後期課程  山 口 由 香鈴木其一(寛政8年[1796]~安政5年[1858])は、酒井抱一(宝暦11年[1761]~文政11年[1828])の高弟として江戸時代後期に活躍した絵師である。抱一が尾形光琳(万治元年[1658]~享保元年[1716])に私淑したことから、抱一及びその門下は江戸琳派として知られてきた。その中でも其一の画風は琳派ないし抱一の様式に納まらず、個性的な要素を含むとして評価が見直されている。しかし抱一と比較して其一の個性を論じたり、精緻な描写や鮮やかな色遣いといった独創性を論じたりする論が多い一方で、其一が師・抱一ではなく光琳を志向した作画を行っていた点については、未だ多く語られていない。本稿では其一が画業を通じて「光琳」をアイコンとして意識的に取り入れていたことに着目し、それが光琳への個人的な思慕や師の画風からの逸脱傾向によるものではなく、「光琳の系譜に連なる絵師」という立場を自他ともに確立するための手段であった可能性について検討する。さらに画業終盤の「朝顔図屏風」を取り上げ、本作が光琳の「燕子花図屏風」を本歌とした“返歌”である可能性を提示し、作品に込められた意図についても検討する。まず其一の伝記及び生涯については諸説あるが、『東洋美術大観』(注1)の記述が通例とされている。其一は文化10年(1813)、18歳で抱一の内弟子となって頭角を現し、兄弟子の鈴木蠣潭(天明2年[1782]~文化14年[1817])が急逝すると、抱一を仲人にして蠣潭の姉「りよ」と結婚し、その家督を継いだ。また蠣潭と同じく姫路藩酒井家の家臣に列せられ、抱一が住んだ雨華庵の近くに住んで抱一の付き人となっている(注2)。抱一にとって、一番弟子である其一は絵師としても付き人としても信頼のおける人物だったのだろう。其一は「その會心の作に至りては殆ど抱一に迫り、抱一の門下その右に出づる者なし。」(『東洋美術大観』)と謳われ、文政11年(1828)に抱一が没すると抱一の後継者として活動した。さらに天保4年(1833)には江戸を出立して西遊の旅に出、観光・社寺参詣・知人訪問・古画の縮図作成などに勤しんでいる(注3)。その後も抱一の生家である姫路藩酒井家を訪れるなど精力的に活動していたが、安政5年(1858)にはコレラによって没している。一方で其一の画風変遷については、画中の署名や印章を軸に画業を整理した河野元昭氏の説(注4)が主流で、これに見直しを加えた萩原沙季氏の区分(注5)も存在

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