― 416 ―― 416 ―する。本稿では萩原説を採用するが、これに拠ると其一の画業は①第1期「其一筆」などの署名が草書体で記される時代(文化10年[1813]~文政11年[1828])、②第2期「噲々」号が使用される時代(文政12年[1829]~弘化元年[1844])③「菁々」号が使用される時代(弘化元年[1844]~安政5年[1858])と区分されている。従来の研究では特に第2期に注目がおかれ、同時期を才能開花の時代、あるいは師の呪縛から放たれた時代とし、其一自身の個性に焦点を当てることが多かった。しかし遺された作品群を見渡せば、抱一の影響以上に光琳の影が色濃く出た作品が散見される。其一作品の中には中国絵画など諸派の習得が伺われる作品もあるため、画業の全てが光琳や抱一ありきで形成されたとは言えない。しかし抱一の仕事を受け継ぎ、師が打ち立てた「光琳」風の制作工房という社会的役割を継ぐ必要に迫られていた其一にとって、「光琳」という存在を利用することはそれらの役割を継承する正当性を示し、其一自身やその作品に付加価値を与える意図があったのではないだろうか。また其一と抱一、あるいは其一と光琳の関係性については、これまでも上記の画風変遷に従って研究がなされてきた。たとえば従来の其一観は、第1期は抱一の影響下にあるが、抱一の死を経た第2期では個性を打ち出しはじめ、第3期にかけて光琳への回帰傾向が強まっていくというものである。これについて辻惟雄氏は第2期の「漁樵図屏風」(エツコ&ジョー・プライス・コレクション)に施されたたらし込みに着目し、この時期に伝統的な琳派様式が用いられていると説く(注6)。これを踏まえた竹内美砂子氏も第2期の回帰志向を検証している(注7)。また玉蟲敏子氏は其一の西遊について、その記録である『癸巳西遊日記』(京都大学図書館・谷村文庫蔵)を読み解き、其一が光琳の墓所に参拝していたことを明らかにしている(注8)。また横山久美子氏の論では、第2期終盤から第3期にかかる天保12年(1841)~弘化3年(1846)の頃、其一による『光琳百図』の復刻作業があったことを推定している(注9)。こうした諸研究は、抱一の死・西遊・『光琳百図』復刻などの契機を得て、其一が第2期から第3期にかけて「琳派」ないし「光琳」に目覚めていった可能性を補強してきた。しかしそこに一石を投じたのが廣海伸彦氏の論(注10)で、第2期に画業の転換点が訪れることを肯定しながらも、其一は画業の最初期から「光琳」を意識していたことが検証されている。確かに、弟子入りから僅か2年後の文化12年(1815)には抱一が企画した光琳百年忌を経験していることを考えると、其一は画業の最初期から「光琳」に親しい環境にあったと言える。例として画業最初期の作品「蓮に蛙図」〔図1〕
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